。それがもう出来ないのを知っているから、今もこうして通いつづけている。その入り訳はきのうも宿で言い聞かせてあるのに、うっかりと詰まらないことを浮橋に言い出して、それが八橋の耳へもはいって、おれはいい恥を掻かなければならない事になった。佐野の大尽ともあるべき者が、多寡《たか》が四百両や五百両で大兵庫屋の花魁を請け出そうとした――そんなことが世間へきこえたら廓じゅうの笑い草になる。自分ばかりではない、八橋の恥にもなる。それを思うと、彼は胸が煮え返るように腹立たしかった。
「一年まえのおれだったら、治六の奴め、生かして置くものか」と、彼はいきまいた。
まったく一年まえの彼であったら、憎い治六の襟髪を掴《つか》んで、大道《だいどう》へ引き摺り出して踏み殺すか。又は身を放さない村正の一刀を引き抜いて、彼をまっ二つに断ちはなすか。二つに一つの成敗《せいばい》を猶予するような次郎左衛門ではなかった。十両の金をくれて長《なが》の暇《いとま》は、この主人としては勿体ないほどに有難い慈悲の捌《さば》きであった。
もうこうなったら男の意地としても、彼は八橋を請け出さなければ顔が立たないように思われた。いかにあせってもその金はもう出来ないと思うと、次郎左衛門はなんだか悲しくなった。現にゆうべも八橋から、身請けをするならばするようにしてくれと口説かれた。自分もこんな所に永くいたいことはない。まったく自分を請け出してくれる料簡があるならば、たとい立派というほどでなくとも、人並の引祝いをして廓を出られるようにしてくれと、彼女はしみじみ言った。
これには次郎左衛門も返事に困った。今の身の上でとてもそんなことの出来そうな筈はないので、彼もなま返事をしてその場はいい加減に切り抜けたが、これも畢竟《ひっきょう》は治六の奴めが詰まらないことをしゃべったからである。彼はどう考えても治六が憎かった。
日が暮れると、彼はふらふら[#「ふらふら」に傍点]と宿を出た。今夜は駕籠に乗らずに北をむいて歩いた。憎い奴だとは思いながらも、治六に離れて彼は心さびしかった。並木の通りには宵の灯がちらちら[#「ちらちら」に傍点]と揺れて、二十五日の暗い空は正面の観音堂の甍《いらか》の上に落ちかかるように垂れていた。風のない夜であったが、人のからだは霜を浴びているように寒かった。近いうちに雪が降るかも知れないと次郎左衛門は思った。
「吉原へ行こうか、行くまいか」と、彼は立ち停まって思案した。雷門はもう眼の前に立っていた。
今夜行ったら八橋がまたゆうべの身請け話をくりかえすかも知れない。いつもいつも曖昧な返事ばかりもしていられない。治六のお蔭で自分はどうにもこうにもならないことになった。いっそ正直に今の身の上を打明けて、とても人並の身請けなどはできないと断わろうか。それが潔白で一番いいのであるが、それを聴いて八橋がなんと思うか、次郎左衛門はすこぶる不安心であった。彼は八橋にこんなことを聞かせたくなかった。ふところに金のある間は、なるべく佐野の大尽で押し通していたかった。
彼は酒が飲みたくなった。今夜は宿屋で夕飯の膳に徳利《とくり》の乗っていないのを発見したが、彼は酒を持って来いとも言わなかった。宿の亭主もなんだか治六の味方をしているらしいのが、彼の癪にさわっていたからであった。どこへ行っても酒は飲めると、彼は碌々《ろくろく》に飯も食わずに宿を飛び出してしまったのであった。吉原へ行けばなんでも勝手なものが食える――それを知りながら彼は並木通りの小さな茶漬屋の暖簾《のれん》をくぐった。吉原へ行こうか、行くまいか、分別がまだ確かに決まらないからであった。
田楽豆腐と香の物で彼はさびしく酒を飲んでいた。今夜に限って、吉原へ行くのがなんだか気が進まなかった。八橋から又ぞろ身請け話を持ち出されるのが何分つらいからであった。
「おれは男らしくない」
こう思いながらも、彼は八橋の前で何もかも男らしく白状する勇気がなかった。八橋がどれほどに自分を思っていてくれるか、実はその見当がはっきり付いていないからであった。八橋は自分を嫌っていないものと彼は信じていた。しかしどれほどに自分を愛しているか、その寸法を測るべき物指しを彼はもっていなかった。自分が故郷を立ち退いて、今は一種の無宿者同様になっていることを知ったあかつきに、八橋はどんな態度を取るか。それは彼にも確かな想像はつかなかった。
もし八橋が心底《しんそこ》から自分を思っていてくれるとしたら、彼は今更こんなことを言い出して、彼女の心を傷つけるに忍びなかった。もし又それほどに自分を思っていないとしたら、なまじいのことを言い出して、彼女の冷たい心の底を見せつけられるのも怖ろしかった。彼は男らしくないということを十分に意識していながらも、八橋に対し
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