な》の八橋にちなんだのであろう、金糸で杜若《かきつばた》を縫いつめた紫繻子のふち取りの紅い胴抜きを着て、紫の緞子に緋縮緬の裏を付けた細紐《しごき》を胸高に結んでいた。
「花魁。心持ちはもうようおすかえ」と、浮橋は摺り寄って彼女の蒼ざめた顔を覗くと、八橋はただひと言いった。
「浮橋さん。くやしゅうおざんす」
 彼女は張りつめた胸をせつなそうに抱えて、蒲団の上に又うつ伏してしまった。苦しいのは判っているが、くやしいのは判らなかった。浮橋は黙って暫くその顔を見つめていると、掛橋が薬を煎《せん》じて持って来た。そうして、浮橋の袖をそっと曳いて廊下へ連れ出した。
「悪いことができいしてね。困ったものでおぜえすよ」と、掛橋は顔をしかめた。
 十月頃からかの栄之丞がちっとも顔を見せない。手紙をやっても返事がない。呼びにやっても来ない。それで八橋はじれ切っている矢先へ、あいにくにまた悪いことが耳にはいった。店の若い者の伊之助がさっき馬道《うまみち》まで使いに出て、そのついでに観音さまへ参詣にゆくと、仲見世で栄之丞にぱったり出逢った。むこうは笠を傾けて挨拶もせずに行き過ぎたが、たしかにその人らしかったと家《うち》へ帰ってから何心《なにごころ》なくしゃべっていたのを、禿《かむろ》の八千代が立ち聞きして、それを八橋に訴えた。八橋は赫《かっ》となった。病気で外へも出られないという者が、この寒い風に吹かれて仲見世あたりをうろついている筈がない。病気は嘘に相違ない。そんな嘘をついてまでも、ここへ足踏みをしないからは、もうわたしを見限ったものに相違ない。わたしは捨てられたに相違ない、欺《だま》されたに相違ないと、廓育ちの彼女は何でも一途《いちず》に「相違ない」ことに決めてしまって、身もだえしてくやしがった。こうした機会を待ち設けていたように持病の癪の虫が頭をもたげた。さなきだに狂いかかっている彼女は、突然におそって来た差込《さしこ》みの苦痛に狂って倒れた。それは浮橋がここを出ると間もない出来事であった。
 そんな騒ぎで、八橋は仲の町へも立花屋へも、とても出て行かれる訳ではなかった。
「立花屋のお客は誰でおぜえすえ」と、掛橋はまた訊いた。それは佐野の大尽であることを浮橋は話した。そうして、次郎左衛門も雷門まえで栄之丞に逢ったという話を自分もいま聴いて、不思議に思っていたところだと言った。栄之丞が病人でないことはいよいよ確かめられた。
 栄之丞がなぜそんな嘘をつくのか、二人にも判らなかった。なんにしても花魁の怒るのは無理もないと思った。くやしがって癪をおこすはずだと思った。しかし、そんなことを評議している場合でない。次郎左衛門は茶屋に待っている。いつまでも沙汰なしにしておいて、機嫌を損じては悪いと思ったので、浮橋と掛橋は取りあえず仲の町へ行った。出がけに掛橋は禿を叱った。
「お前がよけいな告げ口をしなんすから、こんなことにもなるのでおざんす。これからはちっと口を慎みなんし」
 わたし達がいないあいだは、花魁の枕もとへ行っておとなしく坐っていろ、何か変った事があったら直ぐに遣手《やりて》衆を呼べ。いうことを肯《き》かないと、約束の蜜柑《みかん》も買ってやらない、羽根も買ってやらないと、掛橋はきびしくおどしつけて出て行った。出ると、店口で立花屋の女中に逢った。彼女は待ちかねて二度の迎いに来たのであった。
 二人は女中と一緒に立花屋へ行って、花魁が急病の話をすると、女房もおどろいた。そこで相談の上で、八橋の病気がもう少し納まるまで浮橋だけが茶屋に残っていて、いい頃を見て掛橋自身が迎いに来るか、禿を使いによこすか、それまでもう少し待っていて貰いたいということになった。女房も承知した。掛橋も二階へ顔をちょっと出して、気の毒そうにその訳をことわって行った。次郎左衛門は掛橋にも十五両やった。
 掛橋が二階を降りると、やがてそのあとから便所へ起つ振りをして、治六も降りた。彼はすぐに茶屋を駈け出して、江戸|町《ちょう》の角で掛橋に追いついた。
「八橋花魁、よっぽど悪いのかね。もしよくねえようだったら、無理に我慢して迎いをよこすことはいらねえ。きょうは引っ返してもいいんだから」
「馬鹿らしい」と、掛橋は笑った。たとい花魁の病気が納まらないとしても、茶屋からすぐに帰る法はない。こっちでも帰されるものでない。ともかくも一旦兵庫屋へ来て、花魁の様子を見届けて、ほかの座敷であっさりと飲んで、それから帰るとも名代《みょうだい》を買うとも勝手にするがいい。花魁の容態の善悪にかかわらず、もう一度必ず迎いに来るから、それまでおとなしく待っていてくれと言った。そうして、彼女は「おお、寒」と、袖をかき合わせて駈けて行ってしまった。
 治六は詰まらない顔をして仲の町の曲がり角に突っ立っていた。八橋の病
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