のお使いで門跡《もんぜき》さまの方まで参りましたから」と、彼女は言った。
 使いに出て道草を食ってはならない。用がなければ滅多に来るなと栄之丞はふだんから言い聞かせてあるが、兄思いのお光はときどきに訪ねて来る。兄も叱りながら悪い気持ちはしなかった。
「内へあがると長くなる。門《かど》で帰れ」
 二人は門口に立って、薄い煙りのあがる水田を眺めていた。
「どうだ。この頃は主人の首尾もいいか」
「はい」と、お光はにこにこ[#「にこにこ」に傍点]していた。お内儀《かみ》さんは相変らず可愛がってくれて、このあいだも半襟を下すった。古参の女中のお兼さんも、こっちが素直に受けているので、この頃ではだんだんに打ちとけて来た。この分ならばちっとも居づらいことはない。どうぞ安心してくれと、彼女は嬉しそうに話した。
 その晴れやかな顔を見るに付けても、栄之丞はこの正月のことが思い出された。あの時に八橋というものがなかったら、妹は勿論のこと、自分もどんなに苦しい思いをしたかも知れない。金は次郎左衛門の懐ろから出たにしても、つまりは八橋に救われたのである。その時すぐに金を届けてやると、お光は泣いて喜んだ。主人は満足した。それから二、三日経つと、お光は礼手紙を書いて、ついでの時にそれを八橋さんに届けてくれと兄にくれぐれも頼んで行った。そうして、今度の事が首尾よく済んだのもみんな八橋さんのお蔭であるから、兄さまもどうぞ忘れないでくれと、栄之丞がこの頃とかくに八橋に遠ざかっているのを、それとなく注意するように言って帰った。
 栄之丞は少し迷惑したが、その手紙を握り潰してしまうのも妹に対してなんだか義理が悪いように思われるので、さらに二、三日経ってから吉原へ届けに行った。しかし八橋には逢わないで、茶屋の門口《かどぐち》から女中に頼んで、逃げるように早々帰って来た。
 八橋が起請を焼いたことを栄之丞は妹になんにも話さなかったが、彼の内心には消すことのできない一種の不満と嫉妬とがみなぎっていた。勿論、自分も八橋から遠ざかりたいと念じていたが、むこうから突き放されようとはさすがに思い設けていなかった。落ちぶれたといっても一方は佐野の大尽である。その大尽の襟もとに付いて、浪人者の自分を袖にした女の心が憎かった。手前勝手ではあるが、栄之丞は自分の方から女を突き放したかった。女の方から突き放されたくなかった。
 しかしそれももう仕方がない。これで切れる縁ならば、こうして切れてもよんどころない。お光の礼手紙をとどけた以上は、八橋にも妹にも義理は立っている。もうこれでなんにもない昔と思えばいいと、彼も一旦は思い切りよく諦めた。ところが、八橋の方ではそう素直に諦めさせなかった。すぐに打ち返してお光に宛てた手紙をよこした。お光ばかりでなく、栄之丞にも三日にあげずに手紙をよこすようになった。
 起請を焼いたのにも、いろいろの訳がある。もう一度お目にかかって、よくその訳を言いたいから、ぜひ逢いに来てくれという手紙を受取っても、栄之丞はもう吉原へ足をむける気にはなれなかった。次郎左衛門に逢うのも怖ろしかった。彼は廓の使いに対しても、なんとか、かとかいい加減の作り口上をならべて、努めて女に近寄らない手段を講じていた。実はきのうも八橋から呼び出しの手紙が来て、いろいろの恨みつらみや愚痴が長々と書いてあった。そうして、この頃は次郎左衛門がちっとも影を見せないというようなことも書き添えてあった。それでも栄之丞はまだ釣り出されようとは思っていなかった。
「兄さま、吉原では桜がもう咲いたそうでございますね」と、お光は言い出した。八橋さんからたよりがあったかなどとも訊いた。
 兄の返事がなんだかあいまいなので、お光は少し疑うような眼色を見せた。
「この頃もやっぱり八橋さんのところへお出でにならないのですか」
「むむ。行こうとは思っているが……。行ってもおもしろくないから」
「面白づくばかりでなく、時どきは行ってあげて下さい。このあいだの手紙にも、兄さまを是非よこしてくれとくれぐれも書いてございました。このお正月のこともみんな八橋さんのお庇《かげ》で無事に済んだのでございます。どうかしてお礼をしたいと思っておりますけれども、今のわたくしの力ではどうにもなりません。せめて兄さまにお願い申して……」と、なんにも知らないお光は頼むように言った。
 あんなに世話になって置きながら、それぎりに顔出しをしないでは、義理知らずだと思われるのも心苦しいとも言った。
「そのうちに一度行こうよ」と、栄之丞も妹の気休めにまずこう言っておいた。
「では、ぜひ近いうちに……。いずれ又お話を伺いに出ますから……」
 お光は余り遅くならないうちにと、言うだけのことをいってすぐに帰った。
 さっきから日向《ひなた》に立っていたので、
前へ 次へ
全35ページ中31ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング