れで取って置いて下せえまし」
「冗談言っちゃあいけない」と、亭主は叱るように押し戻した。「お前さんに立て替えさせようと思って壁訴訟《かべそしょう》をした訳じゃあない。長年の定宿だ。まかり間違ったところで私の方の損とあきらめれば済む。今のお前さんには大事の金だ。むやみに遣わせちゃあならない」
「これもみんな旦那さまから貰った金で、つまり旦那さまの物を預かっているも同様でごぜえます。こういう時の用にと思って、去年お暇の出るときに貰った十両はちゃんと手をつけずにあります。どうぞ受取って置いて下せえまし」と、治六の方でも押し返した。
 亭主の眼からは涙がこぼれた。お前さんの志はよく判っているが、どうもこの金をお前さんから受取るわけには行かない。旦那がああいう始末になっては、お前さんももう帰参の見込みもあるまい。その十両を元手にして何か自分の身を立てる工夫を付けた方がよかろうと、亭主は親切に意見すると、治六はときどきに眼を拭きながらおとなしく聴いていた。そうして、久し振りで旦那さまに逢って来たいと言った。
「どうでいい顔もしなさるまいが、逢いたければちょいと顔を出して来なさるがいい」と、亭主は言った。
 治六はそっと二階へあがって行くと、もうやがて八つ(午後二時)というのに次郎左衛門は衾《よぎ》をすっぽりと引っかぶっていた。障子の外から声をかけて、治六は這うように座敷へいざってはいると、次郎左衛門は薄く眼をあいていた。
「治六か。どうしている」
 久し振りで主人から優しい声をかけられて、治六は急に悲しくなった。彼は胸がいっぱいになったようで、腰から手拭を取って顔に当てたまま俯向いていた。
「何を泣く。馬鹿野郎」と、次郎左衛門はあざけるように叱りながら起き直った。「だが、貴様が来たので丁度いい。少し頼みたいことがある。国まで使いに行って来てくれ」
 ここの亭主からもう聞いたかも知れないが、おれも財布の底をはたき尽くして、宿の払いにも困るような始末になってしまった。もう、うかうかしてはいられない。今度という今度は本気になってなんとか身の振り方を付けなければならない。それには幾らかまとまった金が欲しい。これから故郷の佐野へ行って、姉や親類にもその訳を話して、金の都合をして来てくれ。なんといっても親《しん》は泣き寄りで、まさかに情《すげ》なくも追い返すまい。実は飛脚を頼むつもりできのうから手紙を書いておいたから、これを持って行けば判るといって、彼は蒲団の下から一通の手紙を探り出して治六に渡した。
 正直な治六はなんにも疑わなかった。主人としては今の場合こうするよりほかに、知恵も工夫もあるまいと素直に考えた。しかしこれは余ほど難儀な使いで、今さら故郷へのめのめ[#「のめのめ」に傍点]と引っ返して、おまけに無心がましいことを言い出して、親類たちに忌《いや》な顔を見せられるのは治六もなにぶん辛かったが、その辛い目を辛抱しなければ主人の身が立たない。殊に財布が空《から》になった故でもあろうが、宿の亭主の話によれば、この頃は廓へ足踏みもしないという。あるいは主人もいよいよ本気になって、これからまじめに稼ぎ出そうという料簡になったのかも知れない。自分にやさしい声をかけてくれたのも、くるわの酒の醒めたしるしかも知れない。こう思うと、彼の心にもおのずからなる勇みも出て、辛い役目をひき受けて働く甲斐があるようにも思われた。
「よろしゅうごぜえます。すぐにめえります」
 治六はこころよく承知したので、主人も久し振りで笑顔を見せた。忌《いや》でもあろうが我慢して行ってくれと重ねて言った。治六はあしたの朝すぐに発つと約束して、主人の手紙を懐ろへしっかりしまったが、帰る時に彼は胴巻から十両の金を出して、自分はそのうちから佐野まで往き復りの路用《ろよう》として一両だけを取って、残りの金を主人に戻した。次郎左衛門は要らないといったが、治六は無理に押しつけて帰った。
「あいつもやっぱり可愛い奴だ」
 馬鹿と叱った主人の口から、こんな情けぶかい独り言も洩れた。

     十五

 毎日ふり続いた雨が今日はからりと晴れると、春の光りが一度に輝いて来た。栄之丞が窓をあけて見ると、急に雪でも降ったように、近所の屋敷や寺の桜がみんな真っ白に咲き出して、いろいろの鳥の声がきこえた。彼の若い心もそそられるように浮き立って、なんとはなしに門《かど》へ出て、白い雲の流れている瑠璃《るり》色の空を仰いだ。
 きょうは人通りも多かった。吉原では仲の町の桜が咲いたといううわさ話をして行くのもあった。その噂の種になっている吉原の空は薄紅く霞んで、鳶《とび》が一羽低く舞っていた。彼はうっとりとそれを見あげていると、だしぬけに声をかけられて驚いた。妹のお光が笑いながら自分の前に立っていた。
「きょうは奥
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