妹を励ますように言った。
「そうして、そのお金はどうするのです」と、お光は不安らしく訊いた。
「どうするといって、主人に我慢してもらうよりほかはない。勿論、こっちが償《つぐの》うことが出来ればいうまでもないが、いまの身分で二十両はおろか、十両の工面《くめん》も付こう筈がない、つまりはこっちも災難、主人も災難とあきらめて貰うよりほかはない。さあ、遅くなっては悪い。ともかくも一緒に行こう」
「はい」と、お光はまだ躊躇していた。
年の若い正直な彼女は、主人に二十両の損をかけるというのが如何《いか》にも済まないことのように思われてならなかった。とても出来ない相談とは知りながら、彼女はどうにかその金の工面は付くまいかと言った。
「いっそ八橋さんに相談して見たら」と、彼女はしまいにこんな事までほのめかした。
栄之丞は厭な顔をして取り合わなかった。努めて八橋に遠ざかろうとしている矢先きに、こんな相談を彼女のところへ持って行きたくなかった。ここでいつまでも評議をしていても果てしがない。ともかくも主人に逢った上でまた分別の仕様もあろう。案じるよりも産むが易いの譬《たと》えで、思いのほかに主人がこころよく免《ゆる》してくれるかも知れないと言った。
足の進まないお光を叱るように追い立てて、栄之丞は妹と相合傘《あいあいがさ》で雪の門を出た。兄の袖にしょんぼりと寄り添って、肩をすくめて泣きながら歩いて行くお光のすがたが、兄の眼にはいじらしく見えてならなかった。雪を吹き付ける田圃の風を突っ切って、二人は真っ白になって橋場の寮にたどり着いた。
主人の方でもお光の遅いのを心配しているところであった。お内儀さんは穏やかな人で、殊に新参ながらお光を可愛がっているので、その話を聴いて一旦は驚いたが、別にお光を咎《とが》めようともしなかった。
「それでも怪我がなくってよかった。なに、あの金が今要るという訳でもないんだから心配するには及びません。阿兄《おあにい》さんもわざわざ御苦労さまでございました」
この返事を聴いた栄之丞もほっ[#「ほっ」に傍点]とした。お光は嬉し泣きにまた泣いた。
「御主人のお慈悲を仇《あだ》やおろそかに思ってはならないぞ。この上の御恩返しにはせいぜい気をつけて御奉公をしろよ」
主人の前で妹にくれぐれもこう言い聞かせて、栄之丞は早々に帰った。こんなことで堀田原へ廻るのが非常
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