なって来たらしく、彼女の総身は雪女のように真っ白に塗られていた。
「妹か。今頃どうして来た」
 門に立ってもいられないので、栄之丞はともかくも再び内へ引っ返すと、お光もからだの雪を払ってはいって来た。家の中はもう暗かった。
「兄さま」と、お光は重ねて兄を呼んだ。その声の怪しく顫《ふる》えているのが栄之丞の耳についた。
「なんだ」
 少し不安にもなって来たので、彼は行燈をまんなかに持ち出して灯をとぼした。その灯に照らされた妹の顔は真っ蒼であった。髪もむごたらしく乱れていた。着物の襟も乱れて、袖の八つ口もすこし裂けていた。何か他人《ひと》とむしり合いでもしたのではないかとも思われたので、兄はあわただしく訊いた。
「え、どうした。誰かと喧嘩でもしたのか」
 お光はまだ動悸が鎮まらないらしく、幅の狭い肩をいよいよせばめて、胸を抱えるように畳に俯伏していたが、やがてわっ[#「わっ」に傍点]と泣き出した。
「おい、どうしたんだ。泣いていてはわからない。主人に叱られたのか、朋輩と喧嘩でもしたのか」
 お光は崩れかかった島田をぐらつかせながら頭《かぶり》を振った。彼女はまだすすり泣きの声をやめなかった。
「わたしは稽古に出る先きだ。早く訳を言ってくれ」と、栄之丞も少し焦《じ》れ出した。
「申します。堪忍して下さい」
 彼女が泣きながら訴えるのを聞くと、お光の奉公している三河屋のお内儀《かみ》さんは、よんどころない義理で二十両取りの無尽《むじん》にはいっていた。きょうは代籤《だいくじ》でそれが当ったというので、お光は深川までその金を受取りの使いにやらされた。昼間だから大丈夫だろうが、それでも気をおつけよとお内儀さんは注意した。お光は橋場の寮を出て深川へ行った。
 世話人がいるとか居ないとかいうので、お光はしばらくそこに待たされた。二十両の金をうけ取って深川を出たのはもう七つ(午後四時)さがりで、陰った日は早く暮れかかった。おまけに雪さえちらちら[#「ちらちら」に傍点]と落ちて来たので、お光は小きざみに足を早めて橋場へ帰って来る途中、吾妻橋《あずまばし》の上を渡りかかると、さっきから後を付けて来たらしい一人の男が、ふいに駈けて来てうしろからお光を突き飛ばした。彼女はひと堪まりもなくそこに突んのめると、男はすぐにその手から小さい風呂敷包みを引ったくろうとした。風呂敷には財布に入れた二十両
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