から、それは前もってお断わり申しておきます」
「ごもっともでございます。それはその時に又あらためて御相談をいたしましょう。まことに我儘《わがまま》なことばかり申し上げて相済みません」
まったく我儘な申し分であった。自分が身請けをしたいのであるが、それだけの金がないから、お前の方から金のかからないように請け出してくれ。そうして、女はこっちへ渡せというのである。それも本当の親兄弟か親類ならば格別、その女の情夫ということを承知の上で頼むのである。栄之丞としては見くびられたとも貶《おと》しめられたとも、言いようのない侮蔑《ぶべつ》を蒙《こうむ》ったように感じた。
それでも彼は争わなかった。争っても勝てないのを自覚しているのと、これまでこの人を欺《だま》していたのが、なんだか怖ろしいようにも思われるのと、この二つが彼の不満をおさえ付けて、容易に頭をもたげさせなかった。彼は忠実な奴僕《しもべ》のように次郎左衛門の前にひれ伏してしまった。
浅草寺《せんそうじ》の五つ(午後八時)の鐘を聴いてから、次郎左衛門は暇を告げて出た。出るとやはり吉原が恋しくなった。
彼は大音寺前の細い路をつたって、堤《どて》の方へ暗いなかを急いで行った。
威勢のいい四手《よつで》駕籠が次郎左衛門を追い越して飛んで行った。その提灯の灯が七、八間も行き過ぎたと思う頃に、足早に次郎左衛門の後をつけて来た者があった。と思うと、抜打ちの太刀風に彼は早くも身をかわした。武芸の心得のある彼は路ばたの立ち木をうしろにして、闇《やみ》を睨んで叫んだ。
「人違いでございましょう」
まったく人違いであったのか、あるいはこっちに心得があると思ったためか、相手は無言で刃《やいば》を引いて、もと来た方へ一散に駈けて行ってしまった。
九
次郎左衛門を驚かしたのは、そのころ折りおりに行なわれる辻斬りであった。意趣《いしゅ》も遺恨《いこん》もない通りがかりの人間を斬り倒して、刀の斬れ味を試すという乱暴な侍のいたずらであった。一刀で斬り損じるか、もしくは相手が少し手ごわいと見れば、すぐに刃を引いて逃げるのが彼等の習いであった、次郎左衛門もそれを知っていた。
「辻斬りか、栄之丞か」
彼は立ち停まって考えた。しかし場合が場合だけに、彼は栄之丞を疑った。うわべは素直に何もかも承知しておいて、あとから付けて来ておれを闇撃
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