思った。
「吉原へ行こうか、行くまいか」と、彼は立ち停まって思案した。雷門はもう眼の前に立っていた。
今夜行ったら八橋がまたゆうべの身請け話をくりかえすかも知れない。いつもいつも曖昧な返事ばかりもしていられない。治六のお蔭で自分はどうにもこうにもならないことになった。いっそ正直に今の身の上を打明けて、とても人並の身請けなどはできないと断わろうか。それが潔白で一番いいのであるが、それを聴いて八橋がなんと思うか、次郎左衛門はすこぶる不安心であった。彼は八橋にこんなことを聞かせたくなかった。ふところに金のある間は、なるべく佐野の大尽で押し通していたかった。
彼は酒が飲みたくなった。今夜は宿屋で夕飯の膳に徳利《とくり》の乗っていないのを発見したが、彼は酒を持って来いとも言わなかった。宿の亭主もなんだか治六の味方をしているらしいのが、彼の癪にさわっていたからであった。どこへ行っても酒は飲めると、彼は碌々《ろくろく》に飯も食わずに宿を飛び出してしまったのであった。吉原へ行けばなんでも勝手なものが食える――それを知りながら彼は並木通りの小さな茶漬屋の暖簾《のれん》をくぐった。吉原へ行こうか、行くまいか、分別がまだ確かに決まらないからであった。
田楽豆腐と香の物で彼はさびしく酒を飲んでいた。今夜に限って、吉原へ行くのがなんだか気が進まなかった。八橋から又ぞろ身請け話を持ち出されるのが何分つらいからであった。
「おれは男らしくない」
こう思いながらも、彼は八橋の前で何もかも男らしく白状する勇気がなかった。八橋がどれほどに自分を思っていてくれるか、実はその見当がはっきり付いていないからであった。八橋は自分を嫌っていないものと彼は信じていた。しかしどれほどに自分を愛しているか、その寸法を測るべき物指しを彼はもっていなかった。自分が故郷を立ち退いて、今は一種の無宿者同様になっていることを知ったあかつきに、八橋はどんな態度を取るか。それは彼にも確かな想像はつかなかった。
もし八橋が心底《しんそこ》から自分を思っていてくれるとしたら、彼は今更こんなことを言い出して、彼女の心を傷つけるに忍びなかった。もし又それほどに自分を思っていないとしたら、なまじいのことを言い出して、彼女の冷たい心の底を見せつけられるのも怖ろしかった。彼は男らしくないということを十分に意識していながらも、八橋に対し
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