六もその以上のことは詳しく知らなかった。しかしこれだけの事実でも、主人の寝ぼけている顔を洗うには十分の冷たい水であると彼は考えていた。彼は今夜それを残らず打ち明けた。そうして、もともとが気晴らしの遊びであるから、女に情夫《おとこ》があろうが亭主があろうが、別にかけかまいはないようなものであるが、こっちもそのつもりで腹を締めて掛からないと、飛んだ馬鹿を見ることにもなる。吉原へ行くのもいいが、よくそのつもりでいて貰いたいと言った。
「おめえさまも昔とは違う身分だ。千両の金をなくしてしまえば、乞食するよりほかはあるめえ。主人と家来が二人つながって三河万歳《みかわまんざい》もできめえから、よっくそこらも考げえて下せえましよ」
次郎左衛門は衾《よぎ》から首を出して、唯《ただ》せせら笑っているばかりであった。
「馬鹿野郎、くよくよ心配するな。今だからこそ遊んでいられるのだ。これから商売を始めて、千両の金を元手にかけてしまったら、どの金で遊べる。遊ぶなら今のうちだ。八橋に情夫《おとこ》のあることはおれも知っている。現に、兵庫屋の二階で八橋からひきあわされたこともある。八橋は従弟《いとこ》だといったが、そうでないことは俺もちゃんと見ぬいていた。俺は近づきの印《しるし》だといって百両包みを出してやったら、その栄之丞という男は薄気味の悪そうな顔をしていて、容易に手を出そうともしなかった。無理に押し付けても、とうとう返して行った。いや、おとなしい可愛い男よ。あの男ならおれが訳をいって、この千両を半分やるから八橋と手を切ってくれと頼めば、いつでもきっと素直に承知してくれるに相違ない」
「千両を半分やる……」と、治六は呆れて笑い出した。「それよりもおめえさまの首をやった方がよさそうだ。わはははは」
「事によれば首をやらないとも限らない」と、次郎左衛門も笑った。「だが、金のあるうちは命が大事だ」
もう相手になるのが面倒になったらしい。次郎左衛門はくるりと寝返りを打ってこちらへ背を向けた。いつもの癖で、衾をすっぽりと頭からかぶってしまった。雁の声がまたきこえた。
ことばの行きがかりでそんなことを言ったのだろうとは思うものの、冗談にも千両の半分を八橋の情夫にやる――飛んでもないことだと治六は思った。どっちにしても、身上《しんしょう》を振ってもそれだけしかない金を、そう安っぽく扱うような料簡《
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