禍いは、彼の身代の大部分を空《から》にしていた。いくら帳簿を整理しても十露盤をはじいても、いまさら療治のできるような浅い手疵《てきず》ではなかった。殊に今までの喧嘩商売を離れてから、彼の頭はぼんやりして来た。アルコール中毒の患者から酒を奪ったように、彼は活動の力を失った。おとなしくなった、堅気になったとよそ目に見えるのも、噴火山が死火山に変りつつあるというに過ぎなかった。彼としては、むしろ一種の衰えであった。
 彼はその衰えを自覚しないほどに八橋にあこがれていた。そうして、約束通りに堅気の百姓になって、ことしの春ふたたび吉原へ来た。その話を聞いて、八橋は又こう言った。
「よく気を入れ替えなんした。人間は堅気に限りいす」と、彼女《かれ》は身につまされたように言った。
 その深い意味は判らなかったが、女に褒められた次郎左衛門は子供のように嬉しがった。
 しかし、その百姓生活を長く営むことを許されなかった。彼が今年の盆に国に帰ってから後、いろいろの禍いがそれからそれへと落ちかかって来た。彼は一家の後始末を親類に頼んで故郷を立ち退《の》くよりほかはなかった。彼は江戸へ出て、何か生きてゆく方法を考えなければならなかった。彼はさらに百姓から商人に変らなければならなかった。それにしても急ぐことはない、まず暮れから正月は吉原でおもしろく遊んで、それから佐野屋の亭主とも相談して、なんとか相当の商売を見つけ出そうと考えていた。彼のふところには千両の金があった。
「旦那さま。まだお寝《やす》みなさらねえのでごぜえますかえ」
 治六は寝返りを打って、衾《よぎ》の中から主人に声をかけた。
「天井でえらく鼠がさわぐので、眼が醒めてしまいました」と、彼はまた言った。
 今までは気がつかなかったが、低い天井には鼠の駈けまわる音がおびただしく聞えた。次郎左衛門も無言で天井を仰いだ。
「旦那さま。おめえさま何か考えているんじゃごぜえませんかね。道中では毎晩よく眠らっしゃるのに、どうして今夜は寝ねえんだね。もう江戸へへえったから、ゆっくりと手足が伸ばせる筈だが……」と、治六は半分起き返って言った。「おめえさま。あしたの晩に吉原へ行くつもりかね」
「むむ。午前《ひるまえ》に髪月代でもして、午《ひる》過ぎから行くつもりだ。一緒に来い」
 治六は黙っていた。
「いやか」と、主人は少し面白くない顔をして苦笑いを
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