、この三つはどうしても引き放すことの出来ない約束になっているらしくも思われた。八橋とも別れたくない、籠釣瓶とも別れたくない。それを煎じ詰めて考えていると、彼はとうとう最後の結論に到着した。
「籠釣瓶で八橋を殺して、自分も籠釣瓶を抱いて死ぬ。これよりほかに途はない」
重荷を卸《おろ》したようにほっ[#「ほっ」に傍点]として、彼はもう一度その刀をつくづく眺めた。やがて刀を鞘《さや》に納めて、女中を呼んで硯と巻紙とを取り寄せた。彼は姉と親類とに宛てた手紙を書き始めた。書いてしまった頃に、ちょうど午飯の膳を運んで来たので、彼はいつもの通りに酒を注文した。酔うと寝床へもぐり込んで、昼から夜までぐっすりと寝てしまった。
あくる日も雨が降っていた。
「毎日降って困りますね」
佐野屋の入り口へ治六が寂しそうな顔を出した。
「治六さん。しばらく見えなさらなかったね。どうかしなすったか」と、帳場にいる亭主が宿帳をつけている筆をおいて訊いた。
「はい。少し風邪《かぜ》を引きまして、つい御無沙汰をいたしました」
三日目に一度ぐらいずつは必ずそっと訪ねて来て、主人の安否を蔭ながら訊いてゆく治六が小《こ》半月ばかりも顔を見せないので、亭主も内々心配しているところであった。なるほど病気で寝てでもいたらしく、ふだんから髪月代《かみさかやき》などに余り頓着しない男が一層じじむさくなって、少し痩せた頬のあたりにそそけた鬢の毛がこぐらかってぶら下がっていた。
「旦那さまはこの頃どうでごぜえます」と、彼は帳場の前ににじり寄って来てすぐに訊いた。
「相変らずさ」と、亭主はにがい顔をした。「だが、もう大抵遣い切ってしまったらしい。吉原へもだいぶ遠退いたし、この頃では髪結い銭もないらしい」
次郎左衛門は二月の勘定もまだ払わない。長年の馴染みであるから、勿論あらためて催促もしないが、今まで晦日《みそか》には几帳面《きちょうめん》に払っていた人が僅かばかりの宿賃をとどこおらせているようでは、その懐ろ都合も思いやられる。例の千両もとうとうみんなおはぐろ溝《どぶ》へ投げ込んでしまったらしいと、亭主は気の毒そうに言った。
治六はじっと俯向いて聴いていたが、やがて肌に着けていた鬱金《うこん》木綿の胴巻から三両の金を振り出して亭主の前にならべた。
「旦那さまの二月分の勘定というのは幾らになるか知りませんが、まあこ
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