遠くなるのを見送って、又次郎は欅《けやき》の大樹のかげを窺うと、そこにはもうお蝶の影はみえなかった。地蔵の前に線香も寒そうな灰になっていた。
     五
 お蝶は乱心しているのであると、又次郎は帰る途中でも考えた。和田の屋敷の近所に魚住良英という医者が住んでいる。本草学《ほんぞうがく》以外に蘭学をも研究しているので、医者というよりもむしろ学者として知られていて、毎月一度の講義の会には、医者でない者も聴きに行く。又次郎も友達に誘われて、その門を五、六回もくぐったことがあった。そのあいだに、良英はある日こんなことを話した。
「世にいう狐|憑《つ》きのたぐいは、みな一種の乱心者である。狐は人に憑くものだとふだんから信じているから、乱心した場合に自分には狐が憑いているなどと口走るのである。したがって、乱心者のいうことも周囲の影響を受ける場合がしばしばある。たとえば、あるところで大蛇《だいじゃ》が殺されたとする。その大蛇はおそらく祟るであろうと考えていると、そのときにあたかも乱心した者は、おれは大蛇であるとか、おれには大蛇が乗り移っているとかいうようなことを口走る。そこで、周囲の者もそれを 
前へ 
次へ 
全47ページ中31ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング