ようなことがあれば、旦那さまはふだんの御気性として、あるいは御切腹でもなさるかも知れないというのである。御新造さまの前で、まさかにそれを言い出すわけにもいかなかったが、その不安が胸を衝《つ》いて来て、お豊はとうとう泣き出したのである。お豊に泣かれてはお松の眼もうるんだ。お蝶もすすり泣きを始めた。
切腹――その不安は言わず語らずのあいだに、すべての人の魂をおびやかしているのである。そのなかで、唯ひとり冷《ひや》やかに構えているのは久助で、彼は気の弱い女たちを歯がゆそうに眺めながら、しずかに煙草をのんでいたが、もう堪《た》まらなくなったように笑い出した。
「おい、おい。おっかあや妹は何を泣くんだ。ことしは内の旦那さまがあの尾白を一発で撃ち落して、組じゅうの奴等に鼻を明かしてやるんだ。おっかあ、おめえ達もその時にゃ赤の飯《まんま》でも炊いて祝いねえ。鯛は商売物だから、世話はねえ。」
主人の弥太郎は笑うまじき所で笑った為に、こうした不安の種を播《ま》いたのである。主《しゅう》を見習うわけでもあるまいが、その家来の彼もまた笑うまじき場合にげらげら笑っているのである。人のいいお豊も少しく腹立た
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