次郎は声をあげて笑いたくなった。
「それにしても、お蝶は可哀そうだ。」
世に乱心者ほど不幸な人間はあるまい。ましてそれが自分の屋敷の奉公人――今では単なる奉公人ではない関係になっている――お島の妹である。それを思うと、又次郎はふたたび暗い心持になった。彼はむやみに笑ってはいられなくなった。お蝶が乱心していることを、その両親の角蔵やお豊が知っているのであろうか。知っているならば、迂濶《うかつ》にひとり歩きをさせる筈もあるまい。あるいは両親がわたし達の宿へ挨拶にきた留守のあいだに抜け出したのか。
「なにしろ、たずねてみよう。」
お蝶が乱心者と決まった以上、いずれにしても相当の注意をあたえて置く必要があると思ったので、又次郎は草鞋の爪先《つまさき》をかえて、海ばたの漁師町へむかった。けさから一旦衰えかかった木枯しがまたはげしく吹きおろしてきて、馬の鬣髪《たてがみ》のような白い浪が青空の下に大きく跳《おど》り狂っていた。尾白の大鷲はこの風に乗って来るのではあるまいかと、又次郎はあるきながら幾たびか空を仰いだ。
「角蔵はいるか。」
表から声をかけると、粗朶《そだ》の垣のなかで何か張物をしていたお豊は振りむいた。
「あれ、いらっしゃいまし。」
迎い入れられて、又次郎は竹縁に腰をおろした。
「風がすこし凪《な》いだので、角蔵は沖へ出ましたが、また吹出したようでございます。」と、お豊は言った。「いえ、もう、冬の海商売は半休みも同様でございます。」
「お蝶はどうした。」
「さっきお宿へ出ました留守のあいだに、どこへか出まして帰りません。」
果たして案《あん》の通りであると、又次郎は思った。
「お蝶はこのごろ達者かな。」と、彼はそれとなく探りを入れた。
「はい。おかげさまで達者でございます。」
「別に変ったこともないか。」
「はい。」
母はなんにも知らないらしいので、又次郎は困った。知らぬが仏とは、まったくこの事である。その仏のような母にむかって、おまえの娘は乱心していると明らさまに言い聞かせるのは、余り残酷のような気がしてきたので、彼はすこしく言いしぶった。お豊にたずねられるままに、彼は江戸の噂などをして、結局肝腎の問題には触れないで立ち帰ることになった。
「角蔵にもし用がなかったら、今夜たずねてくるように言ってくれ、少し話して置きたいことがあるから。」と、又次郎は立ちぎわに言った。
「かしこまりました。」
「忙がしいところを、邪魔をしたな。」
出て行こうとする又次郎を追いかけて、お豊はささやいた。
「さっきも申上げました通り、大師さまのおみくじには凶というお告げがございましたから……。どなたにもお気をお付け遊ばして……。」
おみくじに偽《いつわ》りがなくば、ひとの事よりわが身のことである。おまえは自分のむすめが乱心しているのを知らないかと、又次郎は口の先まで出かかったが、やはり躊躇した。彼はただうなずいて別れた。
老巧の弥太郎のいう通り、さすがの荒鷲も青天の白昼には余りに姿を見せないで、多くは早暁か夕暮れに飛んでくる。殊に雁《がん》や鴉《からす》とはちがって、いかにそれが江戸時代であっても、仮りにも鷲と名のつくほどのものが毎日ぞろぞろと繋《つな》がって来る筈がない。けさ三羽の仔鷲が相前後して飛んできたのは、一季に一度ぐらいの異例といってよい。それを撃ち洩らした以上、この後は三日目に一羽来るか、七日目に一羽来るか、あるいは十日も半月もまったく姿をみせないか、ほとんど予測しがたいのである。そうなると、ゆうべと今朝の失敗がいよいよ悔やまれるのであるが、多年の経験によって弥太郎は若侍らを励ますように言い聞かせた。
「ゆうべも一羽来た。けさは三羽来た。そういうふうにかれらが続けて来る年は、その後も続けて来るものだ。何かの事情で、かれらの棲んでいる深山《みやま》に食い物が著《いちじ》るしく欠乏した為に、二羽も三羽もつながって出て来たのであるから、まだ後からも続いて来るに相違ない。決して油断するな。ことしは案外|獲物《えもの》が多いかも知れないぞ。」
人々も成程とうなずいた。しかもその日は一羽の影を見ることもなくて暮れた。角蔵が来るかと又次郎は待っていたが、彼も姿をみせなかった。娘が乱心のことを女親のまえでは何分にも言い出しにくいので、父を呼んでひそかに言い聞かせようと待ち受けていたのであるが、角蔵はついに来なかった。
その後五日のあいだは毎日強い風が吹きつづけたが、荒鷲は風に乗って来なかった。ことしは獲物が多いという弥太郎の予言も、なんだか当てにならないようにも思われてきた。又次郎は久助を遣わして、角蔵一家の様子を窺わせると、角蔵はあの日に沖へ出て、寒い風に吹かれたせいか、夕方から大熱《だいねつ》を発してその後はどっと寝付いている。
前へ
次へ
全12ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング