はなるたけ近寄せようとしていると、土地の者どもが鷲が来た、鷲が来たと騒ぎ立てる。それに驚かされて、みんな引っ返してしまったのだ。我れわれは御用で来ているのに、係合いのない土地の奴らに面白半分に騒ぎ立てられては甚だ迷惑だ。村方一同には厳重に触れ渡して、今後は御用の邪魔をしないように、きっと言い聞かして置かなければならない。」
「鳥は大きいのですか。」と、又次郎は探るように訊いた。
「いや、みんな小さい。ゆうべのも仔鷲であったそうだが、けさのもみんな仔鷲だ。親鳥はまだ出て来ないとみえる。」
親鷲は来ないと聞いて、又次郎は安心したようにも感じた。
「お前もおぼえておけ。この頃の木枯しは海から吹くのではない、山から吹きおろして来るのだ。こういう風が幾日も吹きつづくと、その風に乗って武州甲州信州の山奥から大きい鳥が出て来る。安房上総は山が浅いから、向う地から海を渡ってくるのは親鳥にしてもみんな小さい。ほんとうの大きい鳥は海とは反対の方角から来るのだ。」
弥太郎は向き直って、西北の空を指さした。その指の先があたかもお蝶の教えた方角にあたるので、又次郎はまたなんだか嫌な心持になった。父はほほえんだ。
「けさの三羽を撃ち損じたのは残念だが、あんな小さな奴はまあどうでもいい。たとい仕留めたところで、たいした手柄にもならないのだ。」
おれは大鳥の尾白を撃つという意味が、言葉の裏に含まれているらしく思われるので、又次郎はいよいよ暗い心持になった。
「もう五つ(午前八時)だろうな。」
「そうでございましよう。」
「むむ。」と、弥太郎は再び空をみあげた。「あいつらもなかなか用心深いから、日が高くなっては姿をみせないものだ。大抵は朝か夕方に出て来るのだから、きょうもまず昼間は休みだ。おれはこれから庄屋の家へ寄って、御用の邪魔をしないように言い聞かせてくる。年々のことだから判り切っているはずだのに、どうも困ったものだ。」
「では、ここでお別れ申します。」
「まあ、宿へ帰って休息していろ。今も言う通り、どうせ昼のうちは休みだ。」
弥太郎は陣笠の緒を締めなおして、わが子に別れて立去った。又次郎はほっ[#「ほっ」に傍点]とした。平素から厳格な父ではあるが、けさは取分けてその前に立っているのが窮屈のような、怖ろしいような心持で、久しく向い合っているのに堪えられなかったのである。
父のうしろ姿の遠くなるのを見送って、又次郎は欅《けやき》の大樹のかげを窺うと、そこにはもうお蝶の影はみえなかった。地蔵の前に線香も寒そうな灰になっていた。
五
お蝶は乱心しているのであると、又次郎は帰る途中でも考えた。和田の屋敷の近所に魚住良英という医者が住んでいる。本草学《ほんぞうがく》以外に蘭学をも研究しているので、医者というよりもむしろ学者として知られていて、毎月一度の講義の会には、医者でない者も聴きに行く。又次郎も友達に誘われて、その門を五、六回もくぐったことがあった。そのあいだに、良英はある日こんなことを話した。
「世にいう狐|憑《つ》きのたぐいは、みな一種の乱心者である。狐は人に憑くものだとふだんから信じているから、乱心した場合に自分には狐が憑いているなどと口走るのである。したがって、乱心者のいうことも周囲の影響を受ける場合がしばしばある。たとえば、あるところで大蛇《だいじゃ》が殺されたとする。その大蛇はおそらく祟るであろうと考えていると、そのときにあたかも乱心した者は、おれは大蛇であるとか、おれには大蛇が乗り移っているとかいうようなことを口走る。そこで、周囲の者もそれを信じ、それを恐れて、大蛇を神に祭るなどということも出来《しゅったい》するのである。」
又次郎は今その講義を思い出した。お蝶もそれと同様で、かれはこの頃にわかに乱心した。それがあたかも鷲撃ちの時節にあたって、周囲の者がしきりに鷲の噂をしている。一昨年以来撃ち洩らしている尾白の大鷲の噂も出たかも知れない。あれほどの大鷲は和田さんでなければ仕留められまいなどと言った者もあるかも知れない。ことにお蝶の姉は和田の屋敷に奉公している関係から、その両親はことしの鷲撃ちについて非常に心配している。どうぞ旦那さまに手柄をさせたいとか、尾白の鷲を旦那さまに撃たせたいとか、かれらは毎日言い暮らしているかも知れない。現に先月もそれがために、お蝶は母と共に川崎大師へ参詣したくらいである。その時のおみくじに凶が出たとかいうことも、お蝶に何かの刺戟をあたえたかも知れない。
こう考えると、別に不思議はない。お蝶がたとい何事を口走ろうとも、しょせんは周囲の影響をうけた結果に過ぎないのである。自分は臆病者でないと信じていながら、一時はなんとなく薄気味悪いようにも感じさせられたのは、われながら余りにも愚かであったと、又
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