っている弥太郎は、いたずらに空を睨んでいるばかりであった。
 この時、あなたの欅の大樹――あたかもかの大鷲の落ちた木かげで、奇怪な女の笑い声がきこえた。
「はは、かたきは殺された。ははははは。」
「なに、かたきが殺された……。久助、見て来い。」
 久助は駈けて行ったが、やがて顔色をかえて戻って来た。彼は吃《ども》って、満足に口がきけなかった。
「旦那さま……。若旦那が……。」
「又次郎がどうした。」
「は、はやくお出でください。」
 欅の大樹の前には石地蔵が倒れていた。大樹のかげには又次郎が倒れていた。そのそばに笑って立っているのは、お島の妹のお蝶であった。
 第一発の弾で鷲の落ちたのは、弥太郎も久助も確かに認めた。第二発のゆくえは……。その問いに答えるべく、又次郎の死骸がそこに横たわっているのであった。弥太郎は無言でその死骸をながめていた。久助は泣き出した。お蝶はまた笑った。その笑い声の消えると共に、彼女《かれ》はばたりと地に倒れた。
 おくれ馳せにかけつけた人々は、この意外の光景におどろかされた。どの人も酔いがさめてしまった。

 又次郎は急病ということにして、その死骸を駕籠に乗せて、あくる朝のまだ明けきらないうちに江戸へ送った。駕籠の脇には久助が力なげに附添って行った。彼が大師の茶屋で広言を吐いた頼政の鵺退治も、こんな悲しい結果に終ったのである。お蝶の死骸はもちろんその両親のもとへ送られたが、身うちには何の疵《きず》の跡もないので、どうして死んだのか判らなかった。
 そのなかでも特に不審を懐いているのは、かの久助であった。又次郎がどうして欅のかげに忍んでいたのか、又そのそばにお蝶がどうして笑っていたのか。二人のあいだにどういう関係があるのか。彼は江戸から引っ返して来て、その詮議のために角蔵の家をたずねると、彼はおいおいに快方にむかって、床の上でもう起き直っていた。かれら夫婦は自分の娘の死を悲しむよりも、若旦那の死を深く悼《いた》んでいた。
 久助の詮議に対して、角蔵はこんな秘密をあかした。今から十六年前の秋、彼は甲州の親類をたずねて帰る途中、笹子峠の麓の小さい宿屋に泊ると、となりの部屋に三十前後の上品な尼僧がおなじく泊り合せていた。尼僧は旅すがたで、当歳《とうさい》かと思われる赤児を抱いていた。その話によると、かれが信州と甲州の境の山中を通りかかると、どこかで
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