に、下男をみかえってささやいた。
「あれ、あすこにいるのは……。」
言われて、下男も見かえると、石だたみの道から少し離れた桜の大樹の下に、ふたりの女がたたずんで、足もとに餌《えさ》をひろう鳩の群れをながめていた。下男はそれを見つけて、足早に駈け寄った。
「もし、もし、お島さんのおっかあじゃあねえか。」
下男の声はずいぶん大きかったが、あたりが混雑しているせいか、それとも何か屈託でもあるのか、呶鳴《どな》るような男の声も女ふたりの耳にはひびかないらしかった。下男は焦《じ》れるように又呼んだ。
「これだから田舎者は仕様がねえ。おい、お島のおっかあ、何をぼんやりしているんだな。市ヶ谷の御新造さまがお出でになっているんだよ。」
市ヶ谷という声におどろかされたように、二人の女は急に顔をあげた。かれらは母と娘であるらしく、母は御新造さまと呼ばれる女よりも二つ三つも年下かと思われる年配で、大森か羽田《はねだ》あたりの漁師の女房とでもいいそうな風俗であった。娘はまだ十六、七で、色こそ浜風に黒ずんでいるが、眉《まゆ》は濃く、眼は大きく、口もとはきっと引締まって、これに文金《ぶんきん》島田の鬘《かつら》をきせたらば、然るべき武家のお嬢さまの身代り首にもなりそうな、卑しからざる顔容《かおだち》の持ち主であった。信心参りのためでもあろう、親子ともに小ざっぱりした木綿の袷《あわせ》を着て、娘は紅い帯を締めていた。母はやはり珠数を持っていた。
「あれ、まあ。」と、母は初めて気が付いたように、あわてて会釈《えしゃく》した。「久助さんでござりましたか。御新造さまも御一緒で……。」
かれはうろたえたように伸びあがって、群集のなかを見まわすと、その御新造も人ごみを抜けて、桜の木の下に近寄った。
「あれ、御新造さま……。」と、母は形をあらためて丁寧に一礼すると、娘もそのうしろからうやうやしく頭を下げた。
「めずらしい所で逢いました。」と、女もなつかしそうに言った。「お前がたも御参詣かえ。」
「はい。」
とは言ったが、母の声はなんだか陰《くも》っているようにも聞かれた。娘もだまって俯向《うつむ》いていた。かれらには何かの屈託があるらしかった。
「角蔵どんはどうした。達者かえ。」と、下男の久助は訊《き》いた。
「はい。おかげさまで無事に稼いでおります。」と、母は答えた。「あなた方はまだ御参詣はお済
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