っくと起ちあがった。
こちらの三人は、路が狭いのと、傘をさしているのとで、自由に身をかわすことが出来なかった。白い物はさきに立っている神南の傘の下を掻いくぐって、二番目に立っている堀口に飛びかかった。
「さっきの一言おぼえているか。」
それが石川の声であると覚った時には、堀口は傘越しに肩さきを斬られて雪のなかに倒れていた。神南も森積もおどろいて前後から支えようとすると、石川は身をひるがえして大溝へ飛び込んで、川獺《かわうそ》のように素ばやく西のかたへ逃げ去った。あっけに取られたのは神南ら二人である。かれらは石川を追うよりもまず堀口を抱え起して介抱すると、疵は左の肩先を深く斬り下げられていた。幸いに堀口の屋敷は近所であるので、神南は残って彼を介抱し、森積はその次第を注進に駈けて行った。
堀口の屋敷から迎いの者が来て、手負いを連れて戻ったが、なにぶんにも疵が重いので治療が届かなかった。あくる朝、その知らせに驚かされて、高原の屋敷から余一郎が見舞にかけ付けた時には、堀口はもうこの世の人ではなかった。家内の人々の話によると、彼は苦しい息のあいだに、白い婆が枕もとに来ていると、幾たびか繰返して言ったそうである。それを聞いて余一郎はいよいよ顔色を暗くした。
下手人の石川の詮議は厳重になった。彼が堀口に斬りかかる時に「さっきの一言」と言ったのから想像すると、高原の屋敷で「一人で帰ると、また鬼婆にいじめられるぞ」と堀口にからかわれたのを根に持ったものらしい。それだけの意趣《いしゅ》で竹馬の友ともいうべき堀口を殺害するとは、何分にも解し難いことであるという説もあったが、それを除いては他に子細がありそうにも思えなかった。殊に本人の口から「さっきの一言」と叫んだのであるから、それを証拠とするほかはなかった。それらの事情も本人を取押えれば明白になるのであるが、石川はその場から姿を消してしまって、自分の屋敷へも戻らなかった。
あくる十六日も雪は降りつづいた。堀口の屋敷では、今夜が通夜であるというので、高原の余一郎や、神南や森積は勿論、かるた会の仲間たちも昼間からみな寄り集まっていた。高原織衛も平生からの知合いといい、殊に自分の屋敷の歌留多会から起ったことであるので、伜ばかりを名代に差出しても置かれまいと思って、日が暮れてから中間《ちゅうげん》ひとりに提灯を持たせて、自分も堀口の屋敷へ悔みに[#「悔みに」は底本では「侮みに」]ゆくことにした。灯ともし頃から小降りにはなったが、それでも細かい雪がしずかに降っていた。今夜も風のない夜であった。
三町目谷の坂下へ来かかると、麹町通りの方から雪を蹴るようにして足早に降りて来る人々があった。かれらは無提灯であったが、近寄るにしたがって織衛の提灯の火に照らし出されたのは、石川房之丞の父の房八郎と、その弟子の矢上鉄之助であった。二人ともに合羽をきて、袴の股立《ももだ》ちを取って、草鞋をはいていた。房八郎は去年から伜に番入りをさせて、自分は隠居の身となったが、ふだんから丈夫な質《たち》であるので、今でも大勢の若い者を集めて弓術の指南をしている。ゆうべの一条について、彼は自分の責任としても伜のゆくえを早く探し出さなければならないというので、弟子の矢上を連れて早朝から心当りを隈なく尋ねて歩いたが、どこにも房之丞の立廻ったらしい形跡を見いだすことが出来ないで、唯今むなしく帰って来たところであった。
「卑怯な伜め。未練に逃げ隠れて親の顔にも泥を塗る、にくい奴でござる。」と、房八郎は嘆息した。
かれは見あたり次第に伜を引っ捕えて、詰腹を切らせる覚悟であったらしい。彼が平生の気性を知っている織衛は、それを察して気の毒にも思ったが、今更なんと言って慰める言葉もなかった。房八郎の師弟と織衛の主従とは相前後して鬼婆横町にはいると、その中程まで来かかった時に、織衛の中間は立ちどまって提灯をむこうへ差向けて、「あれ、あすこに……。」と、ややおびえたような声でささやいた。
大溝のふちには白い物が坐っていた。それが問題の妖婆かと、織衛がきっと見定めるひまもなく、房八郎は弟子に声をかけた。
「矢上、それ。」
師匠と弟子は走りかかって、左右からかの怪物を取押えると、怪物はのめるようにぐたりと前に倒れた。倒れると共に、それを埋めている雪の衣は崩れ落ちて、提灯の火の前にその正体をあらわした。彼は石川房之丞で、見ごとに腹をかき切っていた。ゆうべから何処に忍んでいて、いつこのところへ立戻って来たのか知らないが、彼はあたかもかの妖婆が坐っていたらしい所をえらんで、おなじように坐って、同じように雪に埋められて、真っ白になって死んでいたのであった。
四人は黙って顔をみあわせていた。
この事件あって以来、鬼婆横町の名がさらに世間に広まったが、雪
前へ
次へ
全6ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング