斬り散らしているうちに、息が切れ、からだが疲れて、そこにどっかりと坐り込んでしまったのだ。」
「婆はどうした。」と、神南が訊いた。
「どうしたか判らない。」と、石川は溜息をついた。「門番の眼にはなんにも見えなかったそうだ。」
「なんだろう。それが雪女郎というものかな。」と、他の一人が言った。
「それとも、やっぱり例の鬼婆かな。」と、又ひとりが言った。
「むむ。」と、主人の織衛はかんがえていた。「越後には雪女郎というものがあると聞いているが、それも嘘だか本当だか判らない。北国でいう雪志巻《ゆきしまき》のたぐいで、激しい雪が強い風に吹き巻かれて女のような形を見せるのだという者もある。鬼ばば横町の鬼婆だっていつの昔のことか判らない。もし果してそんな婆が棲んでいるならば、今までにも誰か出逢った者がありそうなものだが、ついぞそんな噂を聴いたこともないからな。」
石川ひとりの出来事ならば、心の迷いとか眼のせいとかいうことになるのであるが、神南といい、堀口といい、森積といい、ほかにも三人の証人があるのであるから、織衛も一方に否認説を唱えながらも、さすがにそれを力強く主張するほどの自信もなかった。さっきから待ちかねていた伜の余一郎は思い切って起ち上がった。
「お父さん、やっぱり私が行って見て来ましょう。」
「では、おれが案内する。」と、神南と堀口も起った。
まだほかにも五、六人起ちかかったが、夜中に大勢がどやどやと押出すのは、世間騒がせであるという主人の意見から、余一郎と神南と堀口の三人だけが出てゆくことになった。
むかしの俳句に「綱が立って綱が噂の雨夜哉」というのがある。渡辺綱が羅生門と行きむかったあとで、綱は今頃どうしているだろうという噂の出るのは当然である。この席でもやはり、三人の噂をしているうちに、雪の夜はおいおいに更けた。余一郎らは張合い抜けのしたような顔をして引揚げて来て、屋敷から横町までの間には何物もみえなかった、横町は念のために二度も往復したが、そこにも犬ころ一匹の影さえ見いだされなかったと報告した。
「そうだろうな。」と、織衛はうなずいた。
そんなことに邪魔をされて、今夜の歌留多会はとうとうお流れになってしまった。夕方から用意してあった五目鮨がそこに持ち出され、人々は鮨を食って茶を飲んで、四つ頃(午後十時)まで雑談に耽っていたが、そのあいだにも石川はいつもほどの元気がなかった。それは武士たるものがかの妖婆に悩まされたということが、なにぶん面目ないのであろうと一座の者にも察せられた。
果して彼はひと足さきへ帰ると言い出した。
「御主人、今晩はいろいろ御厄介になりました。」
挨拶して起とうとする彼を、堀口はひき止めた。
「まあ、待てよ。どうせ同じ道じゃないか。一緒に帰るからもう少し話して行けよ。」
「いや、帰る。なんだか、風邪でも引いたようでぞくぞくするから。」
「ひとりで帰ると、又鬼婆にいじめられるぞ。」と、堀口は笑った。
石川は無言で袂を払って起った。
三
一座の話は四つ半頃(午後十一時)まで続いた。歌留多会は近日さらに催すということにして、二十人余りの若侍は主人に暇を告げて、どやどやと表へ出ると、更けるに連れて、雪はいよいよ激しくなった。思いのほかに風はなくて、細かい雪が静かに降りしきっているのであった。
「こりゃ、積もるぞ。あしたは止んでくれればいいが……。」
こんなことを言いながら、人々は門前で思い思いに別れた。神南佐太郎、堀口弥三郎、森積嘉兵衛、この三人はおなじ方角へ帰るのであるから、連れ立って鬼婆横町を通り抜けることになると、西から東へ抜ける狭い横町は北風をさえぎって、ここらの雪は音もなしに降っていた。南側の小屋敷の板塀や生垣はすべて白いなかに沈んで、北側の大溝も流れをせかれたように白く埋められていた。三人がつづいて横町へはいると、路ばたの大きい椎の木のこずえから、鴉らしい一羽の鳥がおどろかされたように飛び起った。
神南と堀口は先刻探険に来て、妖婆の姿がもう見えないことを承知していたが、それでもこの横町へ踏み込むと、幾分か緊張した気分にならないわけにはいかなかった。森積も同様であった。隙間もなく降る雪のあいだから、行く手に眼を配りながらたどって行くと、二番目に歩いている堀口が、何物にかつまずいた。それは足駄の片方であるらしかった。
「これは石川がさっき脱いだのかも知れないぞ。」
言うときに真っ先に進んでいる神南は、小声であっ[#「あっ」に傍点]と叫んだ。
「あ。又あすこに婆らしいものがいるぞ。」
横町の中ほどの溝のふちには、さっきと同じように真っ白な物が坐っているらしかった。それはもう二間ほどの前であるので、三人は思わず立ちどまって透かし視ようとする間もなく、かの白い影は忽ちす
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