の注意をひいて、主人の織衛は笑いながら訊いた。
「石川、どうした。気でも違ったか。」
「いや、気が違ったとも思いませんが……。」と、石川は俯向きながら答えた。「しかしまあ気が違ったようなものかも知れません。考えると、どうも不思議です。」
 不思議という言葉に、人々は耳を引立てた。一座の瞳《ひとみ》は一度に彼の上にあつまると、石川もだんだんに気が落ちついて来たらしく、主人の方に正しくむかって、いつものようにはきはきと語りつづけた。
「出先によんどころない用が出来て、時刻がすこし遅くなったので、急いで家を出て、鬼ばば横町にさしかかると、横町の中ほどの大溝のきわに、ひとりの真っ白な婆が坐っているのです。」
「やっぱり坐っていたか。」と、堀口は思わず喙《くち》をいれた。
「むむ、坐っていた。」と、石川はうなずいた。「おかしいと思って近寄ると、その婆のすがたは見えなくなった。いや、見えなくなったのではない。いつの間にか二、三間さきへ引っ越しているのだ。いよいよおかしいと思って又近寄ると、婆のすがたは又二、三間さきに見える。なんだか焦《じ》らされているようで、おれも癪に障ったから、穿いている足駄をぬいで叩きつけると、婆の姿は消えてしまって、足駄は大溝のなかへ飛び込んだ。」
「やれ、やれ。」堀口は舌打ちした。
「仕方がないから、おれも思い切って跣足《はだし》になって、横町を足早に通りぬけると、それぎりで婆の姿は見えなくなった。これは自分の眼のせいかしらと思いながら、ここの屋敷の門前まで来ると、婆はもう先廻りをして雪の降る往来なかに坐っているのだ。貴様はなんだと声をかけても返事をしない。おれももう我慢が出来なくなったから、傘をほうり出して刀をぬいて、真っ向から斬り付けたが手応《てごた》えがない。と思うと、婆はいつの間におれのうしろに坐っている。こん畜生と思って又斬ると、やっぱり何の手応えはなくって、今度はおれの右の方に坐っている。不思議なことには決して立たない、いつでも雪の上に坐っているのだ。
 こうなると、おれも少しのぼせて来て、すぐに右の方へ斬り付けると、婆め今度は左に廻っている。左を斬ると、前に廻っている。前を斬ると、うしろに廻っている。なにしろ雪の激しく降るなかで、白い影のような奴がふわりふわりと動いているのだから、始末に負えない。おれもしまいには夢中になって、滅多なぐりに
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