の口から話した。幕府が瓦解《がかい》の後、久住は無禄移住を願い出て、旧主君にしたがって駿府《すんぷ》(静岡)へ行ったので、陪臣の箕部もまたその主君にしたがって駿府へ移ったが、もとより無禄というのであるから、どの人もなにかの職業を求めなければならない。箕部の一家も手内職などをして僅かにその日を送っているうちに、お筆の母がまずこの世を去り、つづいて父の五兵衛も死んだので、ことし十七のお筆は途方にくれた。
父が遺言に、東京の四谷見附外と小石川伝通院前とに遠縁の者がいる。それをたずねて何とか身の処置を頼めとあったので、お筆はちっとばかりの家財を路用の金にかえて、こころ細くも身ひとつで東京へ出て来て、まず小石川へたずねて行くと、その人はとうにそこを退転してしまって、その行く先も判らなかった。さらに四谷をたずねると、これも行くえ不明であるので、お筆は実にがっかりした。それにつけても父がむかし住んでいた番町の屋敷というのはどんな所であるか、一度は見たいような気もしたので、彼女は暗くなってからそっと覗きに来たのである。
お筆も六つの年までここで育ったのであるが、子供の時のことであるから確かな記憶はない。筋むかいの屋敷にある大銀杏を目あてにして、大かたここであろうと長屋窓の外から覗いているところを、隣りの人に怪しまれて早々にそこを立去ったが、さてこれからの身の処置をどうしていいか、差しあたっては今夜のやどりをどうしていいか、お筆は案じわずらいながら、どこを的《あて》ともなしにさまよい歩いているうちに運の悪いときは悪いもので、測らずも溝口医師の車と衝突したのであった。
こういう事情がわかってみると、溝口の家でも彼女を逐《お》い出すに忍びなくなった。溝口にはお道という細君もあり、お蝶という娘もある。ことにお蝶はお筆と一つちがいの十六であるので、おなじ年ごろの子を持つ溝口夫婦の思いやりも深かった。お蝶もひどくお筆の身の上に同情した。そこで、ゆく末は知らず、差しあたりはまずここの家に落ち着いたら好かろうということになって、親類でもなく奉公人でもなく、一種の掛《かか》り人《うど》としてお筆は溝口家に身を寄せることになったのである。
何といっても士族のむすめであるから、行儀も好い、読み書きや針仕事も出来る。その上に容貌も好い。こういう身の上であるから、当人も努めて遠慮勝ちにしているのであろうが、人間も素直でおとなしい。これでは誰にも嫌われ憎まれよう筈はないので、お筆は溝口一家の人々からも可愛がられた。とりわけてお蝶は彼女と姉妹《きょうだい》のように親しんでいた。
あまりに口のよくない抱え車夫の女房もお筆をほめていた。お銀は一番最初に彼女を見つけて声をかけたのが何かの因縁であるようにも思われて、ゆくゆくはあの娘をわが子の嫁になどとも内々かんがえていたのと、もう一つには不運のむすめに同情する女ごころで、時どきに半襟や襦袢の袖などを贈ることもあった。お筆はその親切をよろこんで、お銀の家へも親しく出入りをして、その家の用などを手伝ってやっていた。
こうして半年ばかりは無事に過ぎたが、あくる十四年の三月になって、溝口家にはまた一人の掛り人が殖えた。それは上林吉之助という青年で、溝口医師と同郷人であった。吉之助はことし二十一で、実家は農であるが相当に暮らしている。かれは次男で、医学修業のために上京したのであるが、うかつに下宿屋などに寄宿させるのは不安であるというので、吉之助の親許から万事の世話を溝口方へ頼んで来て、溝口もこころよくそれを引受けたのである。吉之助は小野という若い薬局生と玄関のわきの六畳の部屋に同居して、本郷辺にある学校に通いながら、かたわらに薬局の手伝いなどをしていた。
前置きの説明がすこし長くなったが、これだけの事を言って置かないと、あとの話が判らなくなるおそれがあるから、まあ我慢してもらいたい。とにかくに溝口の家にお蝶という娘のあるところへ、さらにお筆という娘がはいり込んで来た。表長屋には矢田友之助という若い男がいるところへ、さらに溝口家に上林吉之助という若い男がはいり込んで来た。若い娘ふたりに若い男ふたり、それが接近していては、どうも無事に済みそうもないのは誰にも想像されるであろう。
しかし表面はきわめて無事円満であった。吉之助もおとなしく勉強していて、溝口一家の信用を傷つけるようなことはなかった。お筆もお蝶と仲よくして、小間使のように働いていた。友之助は無事に役所へ出勤していた。この年の十月には政府に大|更迭《こうてつ》があって、大隈重信《おおくましげのぶ》が俄かに野《や》にくだった。つづいて板垣退助らが自由党を興《おこ》した。それらの事件も、溝口と矢田の両家にはなんの影響をあたえないで、両家は依然として平和に暮らしていた。しかも
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