、その平和の破れる時節がだんだん近づいて来た。
友之助の母お銀はその以前からお筆を嫁に貰いたい下心《したごころ》があった。お筆はことし十八で、来年は十九の厄年にあたるから、なるべくは年内に婚礼を済ませてしまいたいとお銀は思った。勿論それは溝口夫婦の同意を得なければならないのであるが、第一に本人同士の意思を確かめておく必要があるので、お銀はまずせがれの友之助に相談すると、かれは故障なく承知した。
「阿母《おっか》さんさえ好いというお考えならば、わたしに異存はありません。」
そこで、友之助が役所へ出て行ったあとで、お銀はお筆をそっと呼んで、かの相談を打明けると、お筆はその返事を渋っていて、自分は他家《たけ》の厄介になっている身の上であるから、まだ当分は嫁に行くなどという気はないと答えた。お銀は年寄りで気が短かい。一旦思い立った以上、どうしてもこの相談をまとめてしまいたいと思って、いろいろに説得してみたが、お筆はいつまでもあいまいな返事をしているので、お銀も年寄りの愚痴やひがみもまじって、どうでわたしのせがれのような者はあなたの気には入るまいとか、碌な月給も貰わない安官員では士族のお嬢さまと縁組は出来まいとか、厭味らしいことをだんだんに言い出して来たので、お筆もひどく迷惑したらしい様子で、最後にこんなことを言った。
「そう仰しゃられると、わたくしもまことに困ります。実はあの……。こちらの友之助さんは、家《うち》のお蝶さんと……。」
「え。友之助がお蝶さんと……。ほんとうですか。」と、お銀はおどろいて訊きかえした。
「どうかこれは御内分《ごないぶん》にねがいます。」
「まあ、それはちっとも存じませんでした。一体いつごろからでしょう。」
「わたくしもよくは存じませんけれども……。」と、お筆は考えていた。「なんでもこの八月か九月頃からのように思われます」
「そうですか。」と、お銀は溜息《ためいき》をついた。
わたくしの口からこれを聞いたことはくれぐれも内証にしてくれと、お筆が念を押して帰ったあとで、お銀は再び溜息をついた。お蝶もみにくい容貌ではないが、お筆にくらべると確かに劣る。勿論、今更そんな優劣を論じている場合ではない。出来たものなら仕方がないとしても、ここに第一の難儀は、お蝶がひとり娘であるということである。友之助も矢田家の相続人である以上、婿にも行かれず、嫁にも貰えず、この処置をどうしたら好いかと、お銀も思案にあぐんだのであった。
その晩、友之助の帰るのを待ちかねて、お銀は早々にその詮議をすると、友之助もお蝶と関係のあることを白状した。それならば、なぜお筆との縁談を承知したかと詰問《きつもん》すると、友之助の返事は甚だあいまいであった。かれは母にきびしく追求されて、とうとうこんなことまで白状に及んだ。
「実はわたしは最初からお筆さんの方が好いと思っていたのです。それでこの八月ごろ内証でお筆さんに話してみたところが、お筆さんの言うには、折角の思召《おぼしめ》しだがその御返事は出来ない。あなたは御存じあるまいが、家《うち》のお蝶さんがふだんからあなたを思っている。それを知りつつわたくしがあなたと夫婦になられる訳のものではない。嘘だと思うならば、二、三日のうちにお蝶さんを連れて来て逢わせるというのです。それから二日目の夕方にお筆さんがそっと来て、今晩お蝶さんと二人で招魂社《しょうこんしゃ》の馬場へ涼みに行くから、あなたもあとから来てくれというので、私もついふらふらとその気になって招魂社まで出かけて行きました。」
お蝶と友之助との関係がお筆の取持ちであることを知って、お銀は又おどろいた。おとなしそうな顔をしていながらお筆という女も随分の大胆者であると、むかし気質《かたぎ》のお銀は腹立たしくもなった。それと同時に、すでにお蝶との関係が成り立っていながら、出来るものならば牛を馬に乗りかえて更にお筆と結婚しようとする、わが子の手前勝手をも憎まずにはいられなかった。
「今のわかい人たちにも困るね。」
こう言って、お銀は又もや嘆息するのほかはなかった。友之助もなんだか詰まらないような顔をして、自分の居間兼座敷にしている六畳の部屋へ起って行った。かれは置きランプの心《しん》をかき立てて、机の上でなにか長い手紙のようなものを書いているらしかった。
三
お銀はその夜はおちおちと眠られなかった。あくる朝、再びせがれを自分の前によび付けて、この解決をどうするつもりかと詰問すると、友之助はただ恐れ入っているらしく、別にはかばかしい返事もしなかった。しかし昔気質のお銀としては、ひとの娘をきず物にして唯そのまま済むわけのものではないと思った。殊に自分がそれを知った以上、なおさら捨てて置くわけにはいかない。ともかくも溝口の奥さんに逢って、
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