追っ払ったとひそかに祝福していると、さらに友之助の母から自分に対する縁談を持ちかけられた。それはむしろ好機会であると思ったので、お筆はよんどころないような顔をして、お蝶と友之助との秘密をあばいてしまった。それがお銀をおどろかし、溝口夫婦をおどろかして、結局はお蝶と友之助との結婚を早めることになった。秘密が暴露した夜に、友之助が長い手紙をかいていたのは、おそらくお筆にあてたもので、自分たちの秘密をあばいたのを怨んだものか、あるいは自分の魂はいつまでもお筆のふところにはいっていると訴えたものか、又それに対してお筆がどんな返事をあたえたか、あるいはなんにも返事をしなかったか、それらの事情はもちろん判らない。
いずれにしても縁談は滑《すべ》るように進行して、結婚の吉日が切迫して来た。小野の話によって想像すると、お蝶の縁談がいよいよ決定すると共に、お筆はもう誰に遠慮することもないという風で、ますます吉之助の方へ接近して行ったらしい。それを見せつけられて、お蝶の胸の火は燃えあがった。しかも友之助にわが身を許してしまったという弱味がある以上、彼女は今更どうすることも出来なかった。彼女はお筆の罠《わな》にかかって、自分のほんとうの恋人を横取りされたことを覚《さと》ったかも知れないが、今となっては恨みを呑んでその勝鬨の声を聞くのほかはなかった。そのうちに結婚の日は眼のまえに迫って来るので、一種の嫉妬と悔恨とに堪えかねて、お蝶はわれと我が若い命を縮めるようになったらしい。死後に父の医師が検査すると、彼女はもう妊娠三ヵ月になっていたのである。
お蝶の書置は簡単なもので、お筆や吉之助の問題には何にも触れていなかったが、その悼《いた》ましい最後はお筆に対して、一種の復讐手段となった。お蝶がとどこおりなしに友之助と結婚すれば、お筆に取っては最も好都合であり、又そうなるのが当然であると信じていたところへ、思いもよらないお蝶の自殺という事件が突発して、お筆は溝口家に居たたまれないような羽目になってしまった。しかしお蝶の死後一ヵ月あまりの間に、彼女は確実に吉之助を自分の物にしてしまったので、思い切ってここの家を立ち退いた。その後お筆は何処にどうしていたか、それはちっとも判らないが、いずれにしても時どきに吉之助をよび出して、どこかで交情をつないでいたらしい。あるいはやはりお銀の隣りの空家を利用していたかも知れない。こうして、三、四、五の三月間をまず無事に送っていたが、いよいよ最後の破滅の時が来た。
ここまで説明して来て、溝口医師は僕の叔父に言った。
「ここまでは私の推測がおそらくあたっているだろうと思うのですが、さていよいよの最後の問題です。矢田の母はあたかも不在であったので、前後の事情はよく判らないのですが、となりの空家でお筆と吉之助とが密会しているところへ、友之助がそれを発見して踏み込んで行ったのは事実でしょう。さあ、それからがなかなかむずかしい。お筆と吉之助は心中でもするつもりで劇薬を持ち込んだのか、それならば吉之助ひとりが飲むのもおかしい。あるいは吉之助がまず飲んだところへ、突然に友之助が押し込んで来たのか、それにしても、友之助がどうしてそれを飲んだか、飲まされたか。あるいは最初から心中などする料簡ではなく、単に吉之助の持っていた劇薬を、お筆が何かの邪魔になる友之助に飲ませようとして、吉之助もあやまって一緒に飲むような事になったのか、それとも何かの事情から男ふたりを一度に葬るつもりで、お筆が吉之助と友之助とに飲ませたのか、それらの秘密はお筆の白状を待つのほかはありません。したがって、永久の秘密に終るかも知れません。」
「お筆のゆくえはそれっきり知れないのですか。」と、叔父は訊いた。
「それから二、三日の後、有喜世新聞にあの記事が出て、築地河岸で夜網にかかった鯔の腹から破れた状袋があらわれた。その状袋には○之助様、ふでよりと書いてあったというのです。○之助だけでは、吉之助か友之助か判りませんが、差出人の名が「筆」とあるのをみると、どうもあのお筆の書いたものらしく思われたので、念のために京橋の警察へ行って聞きあわせたのですが、肝心の状袋は寿美屋の料理番が捨ててしまったというので、その筆蹟を見きわめることの出来なかったのは残念でした。」
「お筆は身でも投げたのでしょうか。」
「さあ、ふたりの男の死んだのを見て、お筆はそこを抜け出して、築地から芝浦あたりで身を投げた。そうして、帯のあいだか袂にでも入れてあった状袋が流れ出して、かの鯔の口にはいった――と、想像されないこともありません。あるいは単に不用の状袋を引裂いて川に投げ込んだのを、鯔がうっかり呑み込んだ――と、思われないこともありません。警察でも築地河岸から芝浦、品川沖のあたりまでも捜索してくれたのです
前へ
次へ
全9ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング