、かれらもお蝶とおなじ劇薬をのんだもので、もはや生かすべき術《すべ》もなかった。家内を残らずあらためたが、別に怪しむべき形跡も見いだされないので、かれら二人がどうして死んだのか、その子細はちっとも判らなかった。
「あいつです、あいつです。きっとあいつが殺したのです。」と、お銀は泣きながら叫んだ。「わたしが今帰って来たときに、ここの家からぬけ出して行ったのは確かにお筆でした。」
 お筆の名を聞いて、人びとも又おどろいた。

     四

 お筆がここから出て行く姿を、お銀がたしかに見届けたとすれば、お筆もこの事件の関係者には相違ないが、果たして男ふたりを毒殺するほどの怖るべき兇行を敢てしたかどうかは疑問であった。さりとて男同士の心中でもあるまい。ほかに書置もなく、手がかりとなるべき遺留品も見あたらないので、警察でもこの事件の真相をとらえるのに苦しんだ。
「お筆という女はどうしてそんなに祟《たた》るんでしょう。」と溝口の細君はくやしそうに罵った。「ほんとうに飛んでもない悪魔にみこまれて、娘を殺されて、上林さんを殺されて、矢田さんを殺されて、しまいにはわたし達も殺されるかも知れません。」
 悪魔――あるいはそうかも知れない。お筆という女は、自分のむかしの家を乗っ取られたのを怨んで、悪魔となって入り込んで来たのかも知れないと溝口医師も思った。
 文明開化の世の中にそんな馬鹿なことがあるものかと一方には打消しながらも、お筆が相変らずここらを徘徊して、友之助と吉之助との死についても何かの関係をもっているらしいということが、何だか一種の不思議のように思われてならなかった。こういう場合にはどの人も素人探偵になる。溝口も家内や出入りの者などをいろいろに詮議して、この事件について何かの秘密をさぐり出すことに努力したが、どうも思わしい効果を得なかった。唯そのなかで薬局生の小野の口から一つの新しい事実を聞き出した。
 小野はことし十九で、東京へ出てから足かけ四年になるのであるが、元来が薄ぼんやりした質《たち》の男で、いつまで経っても山出しの田舎書生であった。その上に一体が無口の方で、これまでなんにも話したことはなかったのであるが、先生から厳重の詮議をうけて、彼はどもりながらこんなことを言った。
「あのお筆さんという人は上林君によほど恋着《れんちゃく》していたようです。お嬢さんも上林君を慕っていたようでした。去年の暮れ頃からお筆さんと上林君とはいよいよ親密になって、夜になって上林君が散歩に出ると、そのあとからお筆さんもそっと出て行くことがありました。」
 それを早くに知らしてくれたら、なんとか方法もあったものをと、今更にかれを責めてももう遅かった。又それだけのことを知ったのでは、この事件の謎を解くにはまだ不十分であった。しかしこういうヒントをあたえられて、溝口医師は前後の事情を照らしあわせて、ともかくも一種の推断をくだすことが出来るようになった。
 小野のいう通り、お筆とお蝶とが上林吉之助に恋着していたのは恐らく事実であろう。小野が薄ぼんやりしているを幸いに、若い女たちは薬局へはいり込んで、かなり大胆に振舞っていたかも知れない。こうなると、二人の女のあいだに競争の起るのは当然である。殊にお蝶には両親という味方があって、ゆくゆくは吉之助を婿にしようかという意向のあることを、慧眼《けいがん》のお筆は早くも覚ったらしい。それを防ぐには何とかしてお蝶を遠ざけてしまう必要がある。お筆はその方法をかんがえているところへ、あたかも矢田友之助から恋をささやかれたので、彼女はそれを巧みに利用して、自分に対する友之助の恋をさらにお蝶に移したのである。
 友之助に対してお筆がなんと言ったか、それは男自身の口から母の前で説明されているが、お蝶に対して彼女がなんと言いこしらえたか、それは判らない。おそらく友之助をあざむいたと同じような口ぶりでお蝶をあざむいたのであろう。それに欺かれたお蝶は勿論あさはかであったに相違ない。お蝶は処女の好奇心から、うかうかとお筆に釣り出されて、自分に恋しているという友之助に招魂社で逢った。両者のあいだに立って、お筆が巧みにあやつったのは言うまでもない。こうして、恋ならぬ恋が不思議にむすび付けられて、友之助の隣りの空家が、二人の逢いびきの場所にえらばれた。かれらはその後もお筆のあやつるがままに動かされていたが、この二つの人形にはさすがに魂がある。形はたがいに結び付けられていても、友之助のたましいはやはりお筆にかよっていた。お蝶の魂はやはり吉之助にかよっていた。
 形とたましいとが離れ離れになっていたところに、この悲劇の根がわだかまっていたらしいが、お筆も魂の問題までは考えていなかったであろう。ともかくもお蝶を友之助に押し付けて、これで自分の競争者を
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