《いだ》いて来た。
「あの、お前さん。あんまり飲むと毒ですよ」
「いくら飲んだっていいよ。あたしが飲むんじゃないから」と、眼付きのいよいよ悽愴《ものすご》くなって来たお絹は、左の手には杯を持ちながら、右の手で袂をいじっていた。
それを見てお花はいよいよ不安に思った。
もしやさっきのお此の二の舞をここで演《や》るつもりではあるまいかと、彼女は少しいざり出てお絹の楯になった。よもやここまで蛇を連れて来る筈もあるまいと思いながら、彼女はそっとお絹の袂を探《さぐ》ろうとすると、お絹は眼をひからせてその手を強く叩きのけた。
「なにをするんだよ。人の袂へ手をやって……。おまえ巾着切《きんちゃっきり》かえ」
「なんだ、なんだ。袂に大事の一巻でも忍ばせてあるのか」と、千次郎は笑った。
「ええ、大事なものよ。おまえさんに見せて上げましょうか。あたしの袂に忍ばせてあるのは商売道具の青大将よ」
そばにいた女中たちはきゃっ[#「きゃっ」に傍点]といって飛び上がった。まだその正体を見とどけないうちに、千次郎も顔色を変えて起ち上がった。お絹はあざ笑いながら両方の袂を軽く振ってみせた。
「ほら、ご覧なさい。大丈夫。だが、和泉屋の若旦那。おまえさんは随分たのもしくないのね。あたしの商売がなんだということを今初めて知ったんじゃありますまい。それを承知の上でここまで呼び出して置きながら、蛇と聞くと直ぐに悚毛《おぞけ》をふるって逃げ腰になるようじゃあ、とても末長くおつきあいは出来ませんね。ねえ、花ちゃん。それを思うと、向柳原はやっぱり可愛いところがあるね。なにしろ蛇とあたしと一緒に小《こ》一年も仲よく暮らしたんだからねえ」
お絹はもう行儀よく坐っていられないほどに酔いくずれていた。彼女は片手を畳に突いて、ぐったりと疲れた人のように、痩せた肩で大きい息をついていた。
「ねえ、花ちゃん。向柳原はまったく頼もしいね。家を勘当されても、浪人しても、蛇とあたしと一緒に暮らしていたいと言うんだからね。あたしも今夜という今夜つくづく悟ったよ。女がほんとうに可愛いと思う男は、一生にたった一人しか見付からないもんだね。どう考えても浮気はできない。花ちゃん。お前、なんだってあたしをこんな所へ連れて来たんだえ。ええ、くやしい」
彼女はお花の膝にしがみ付いたかと思うと、更にその胸倉《むなぐら》をつかんで無暗に小突《こづ》きまわした。相手が酔っているので、お花はどうすることも出来なかった。女中たちはおどろいて燭台を片寄せた。
「手に負えねえ女だ」と、千次郎は持てあましたように苦笑《にがわら》いをしていた。
「姐さん。あやまった、あやまった。堪忍、堪忍……」
お花は小突かれながら頻りにあやまると、お絹は相手を突き放してすっくと起ちあがった。乱れた髪は黒い幕のように彼女の蒼い顔をとざして、そのあいだから物凄い二つの眼ばかりが草隠れの蛇のように光っていた。
「あたし、もう帰りますよ。誰がこんな所にいるもんか。駕籠を呼んでくださいよ」
八
向島を出たお絹の駕籠は四つ(午後十時)頃に、向柳原の杉浦家の門前におろされた。垂簾《たれ》をあげて這い出したお絹は、よろけながら下駄を突っかけて立った。提灯の灯《ほ》かげにぼんやりと照らされた彼女の顔はまだ蒼かった。暗い夜で、雨気《あまけ》を含んだ低い雲の間に、うすい天《あま》の河《がわ》が微かに流れていた。
駕籠屋にはなんにも言わないで、お絹はよろよろ[#「よろよろ」に傍点]と潜《くぐ》り門の前へあるいて行った。門にはもう錠がおろされていて、闇に白い彼女の拳《こぶし》が幾たびかその扉に触れると、そばの出窓から門番のおやじが首を出した。
「どなた……」
門番は大きく呼んだ。
「あたしですよ」と、お絹は答えた。「仁科林之助さんに逢わしてください」
「門限をご存じないか」
「それでも急用なんですよ。早く明けてください。後生《ごしょう》ですから」
その媚《なまめ》いた口ぶりに門番も不審を打ったらしい。やがて行燈を持ち出して来て、窓のあいだから表の人の立ち姿を子細らしく照らして見た。
「急用でも夜はいけない。あしたまた出直して来さっしゃい」
「焦《じ》れったい人だね。用があるというのに……」
「おまえは一体だれだ。どこの者だ」と、門番は声をとがらせた。
「林之助の女房ですよ」
「林之助の女房……」
「だから、早く逢わしてください」
「では、待たっしゃい」
門番は不承ぶしょうに奥へはいった。お絹は古い門柱へ倒れるように倚《よ》りかかって、熱い息をふいていると、真っ暗な屋敷の奥では火の廻りの柝《き》の音がきざむように遠く響いて、どこかの草の中からがちゃがちゃ虫の声もきこえた。
やがて潜り門の錠をあける音がからめいて、暗い中から林之助の白い姿が浮き出した。林之助は白地の寝衣《ねまき》を着ていた。
「林さん」
声をかけて寄ろうとするお絹を、男は押し戻すようにして門の外へ出た。ふたりは長屋の窓下を流れている小さい溝《どぶ》のふちに立った。溝の石垣のなかに、こおろぎがさびしく鳴いていた。
「おい、どうしたんだ。今時分こんなところへやって来て……」と、林之助は小声で叱るように言った。
「お前さんに逢いたくって……」
「馬鹿」と、林之助はまた叱った。
武家奉公の林之助が両国の蛇つかいに馴染みがあるなどということは、もちろん秘密にしなければならない。どんなことがあっても屋敷へ訪ねて来てはならないと、かねて固く言い含めてあるのに、夜中だしぬけに御門を叩いて自分をよび出しに来るとは、あんまり遠慮がなさ過ぎると、林之助は呆れて腹が立った。
「どうで馬鹿ですから堪忍してください。あたし、今夜はどうしてもお前さんに逢いたくって、逢いたくって……」
その酒臭い息と、もつれた舌とで、女がひどく酔っているのを林之助は早くも覚った。なまじいここでぐずぐず言っているよりも、だまして早く追い返した方が無事らしいと気がついて、彼はそこに待っている駕籠屋を呼んだ。
「おい、おい。この女はだいぶ酔っているようだ。気をつけて送ってくれ。お絹、いずれあした逢って詳しい話を聞くから、今夜はおとなしく帰ってくれ」
「あい」
「それとも何か急に用でも出来たのか」
返事に困ってお絹はぼんやりと黙っていた。
ふとした浮気からお花に誘い出されたが、さて行って見ると面白くないことだらけで、胸のむしゃくしゃに堪えないお絹は、その反動で林之助が遮二無二《しゃにむに》恋しくなった。飛び立つほどに逢いたくなった。殊に酒にはしたたかに酔っているので、彼女は前後の考えもなしに自分の駕籠をこの屋敷まで送らせたのであったが、来てみると別に用はない。彼女は林之助の顔を見ると、張りつめた気が急にゆるんで、狐の落ちた人のようにぼんやりしてしまった。
それでも直ぐにおとなしく帰ろうとはしなかった。
「おまえさん、今夜出られないの」
「どこへ行くんだ」
「あたしの家《うち》へ……」
もう一度「馬鹿」と言いたいのを林之助は喉《のど》へのみ込んで、今夜これから出るわけにはいかない。あしたはこっちからきっと訪ねて行くから待っていろと、賺《すか》すように言い聞かせて、無理に女の手をとって駕籠に乗せようとすると、お絹は男の腕へぶら[#「ぶら」に傍点]下がるようにして処女《きむすめ》のようなあどけない甘えた声で言った。
「林さん。あたし、これからは何でもお前さんのいうことを素直に聞きますからね。不二屋へ行っちゃあいやよ。え、よくって」
「承知、承知」
銀河《あまのがわ》はいつか消えて、うす白い空の光りはどこにも見えなかった。お絹を乗せてゆく駕籠の端《はな》を、影の痩せた稲妻が弱く照らした。袖をかきあわせて立っている林之助の寝衣《ねまき》の襟に、秋の夜露が冷《ひや》びやと沁みて来た。
「遅く門をあけさせて、気の毒だったな」
門番に挨拶して林之助は自分の部屋へ帰った。
寝入りばなを起された彼は、目が冴えて再び眠られなかった。お絹は今夜なにしに来たのであろう。おそらく酒に酔った勢いで唯なにが無しにここへ押し掛けて来たものと解釈するよりほかはなかった。この頃だんだんに狂女染みて来るお絹の乱れ心を林之助は悲しく浅ましく思った。これがいよいよ嵩《こう》じて来たら何を仕いだすかも判らない。真っ昼間、ここの玄関へ乗り込んで来るかも知れない。その暁《あかつき》には自分の身はなんとなる。林之助は去年のわびしい浪人生活を思い出さずにはいられなかった。お絹のものすごい眼に絶えず見つめられている怖ろしさと苦しさとを恐れずにはいられなかった。
お絹は自分を本所の家《うち》へ再び引き戻そうと念じている。冗談ではあろうが、屋敷をしくじるように祈っていると言ったこともある。あるいは今夜を手始めに、これからたびたびここへ押し掛けて来て、所詮《しょせん》この屋敷にはいたたまれないように仕掛けるのではあるまいかと、林之助はまた疑った。時節を待てとあれほど言って聞かせてあるのに、まだ判らないのかと林之助は腹立たしくもなった。彼は又もやお絹とお里とをくらべて考えた。お絹と深く馴染む前に、なぜ早くお里を見付け出さなかったのであろうと今更のように悔まれた。そうして、ふた口目には不二屋のことを言って、執念ぶかく絡《から》みかかるお絹の妬みがうるさくなった。おれはどうしても蛇の眼から逃がれることが出来ないのであろうか。これも因果と諦めてしまわなければならないのであろうか。おれは忌《いや》らしい蛇の縛《いまし》めを解いて、ほんとうの女と人間らしい恋をすることは出来ないのであろうか。
「執り殺すなら、殺してみろ」
こういう口の下から、彼は言い知れぬ恐怖に囚《とら》われて、とてもお絹の呪いに堪えられないような不安をも感じた。これまでの義理も捨てられなかった。うるさいとは思いながらも、その情けのこまかい味わいを忘れることはできなかった。考え疲れた彼のあかつきの夢は、胸へ這いあがって来る青い蛇にうなされた。
あくる朝はなんだか気分が快《よ》くなかった。ゆうべよく眠れなかったのと、寝衣《ねまき》で夜露に打たれたのとで、からだが鈍《だる》いようにも思われた。お絹をたずねる約束をはっきり記憶していながらも、林之助は早朝から屋敷を出てゆく元気もなかった。そのうちに主人の使いで牛込まで行かなければならないことになったので、彼はとうとう両国橋を渡る機会を失ってしまった。
「留守にまた押し掛けて来やあしまいか」
あやぶみながら帰って来たが、お絹はきょうは姿を見せなかったらしい。誰もたずねて来なかったという門番の話を聴いて林之助はまずほっとした。その日は一日陰っていて、夕方から霧のような雨がしとしと[#「しとしと」に傍点]と降って来た。急に袷《あわせ》が欲しいほどに涼しくなって、疝気《せんき》もちの用人はもう温石《おんじゃく》を買いにやったなどといって、蔭で若侍たちに笑われていた。
雨はその晩から明くる日まで降り通した。きょうの花火はお流れであろうと、林之助は雨の音をわびしく聞いた。そうして、雨の降る日にでも遊びに来てくれと、このあいだの晩お里にささやかれたことを思い出した。しかし彼はどうしてもお絹の方へ行かなければならないと思い直した。きょうも午《ひる》さがりでなければ出られなかったので、八つ(午後二時)少し前に屋敷を出て、冷たい雨のなかを両国へ急いだ。
打ちどめの花火を雨に流された両国の界隈は、みじめなほどに寂れていて、列《なら》び茶屋も大抵は床几《しょうぎ》を積みあげてあった。野天商人《のでんあきんど》もみな休みで、ここの名物になっている鰯《いわし》の天麩羅や鰊《にしん》の蒲焼の匂いもかぐことはできなかった。秋の深くなるのを早く悲しむ川岸の柳は、毛のぬけた女のように薄い髪を振りみだして雨に泣いていた。荷足船《にたりぶね》の影さえ見えない大川の水はうす暗く流れていた。
林之助も暗い心持ちで長い橋を渡った。
九
今頃|自宅《うち》へ行っても
前へ
次へ
全13ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング