をさせて、お絹は酒を飲んだ。酒は舌に苦《にが》いようで味がなかった。やっぱりからだがよくないのかしら――こう思うと、彼女はそぞろに寂しくなった。女が二十二にもなって、ほとんど人まじりも出来ないような、こんな稼業をしていて、末はどう成り行くことであろう。去年の冬、林之助と別れてから、お絹はめっきりと肉の衰えを感じるようになった。さっきのようなことがたびたび続いたら――と、彼女はうしろの壁に映る自分の痩せた影法師《かげぼうし》を思わず見返らねばならなかった。
燭台の蝋《ろう》は音もせずに流れた。あしたの十五夜の用意であろう、小さい床の間にはひとたばの薄《すすき》が生けてあって、そのほの白い花のかげには悲しい秋が忍んでいるように思われた。お絹はいよいよ寂しくなった。
「君ちゃん。なんだか陰気だから、そこの窓をおあけよ」
お君があけた肱掛け窓から秋の夜風は水のように流れ込んだ。となりの露地口の土蔵の白壁は今夜の月に明かるく照らされて、屋根の瓦には露のようなものが白く光っていた。お絹は林之助が発句《ほっく》を作ることをふと思い出した。あしたの晩は月を観て「名月や」などと頻《しき》りに首をひねることだろうと可笑《おか》しいようにも思われた。それとなくお里と約束して、どこへか月見にでも行くだろうかと、急に腹立たしくもなった。
こんな子供を相手にしても仕方がないと思いながらも、お絹はおみくじを探るような気でお君に訊いてみた。
「お前、林さんが不二屋へ行くと思うかい。そうして、あのお里さんと仲よくしていると思うかい」
「そんなこと知りませんわ」と、お君は食べかけた鰻のしっぽを口から出したり入れたりしながら答えた。「だけれども、そんなことはないでしょう。誰だって本当に見た人はないんですもの。お花さんは誰のことでもそう言うんですから」
お花にそんな癖のあることは事実であった。男と女とが少し馴れなれしく詞《ことば》をかわしていると、お花は必ずこれを意味ありげに解釈しなければ気が済まなかった。林之助とお里との名を結びつけて、お絹の前に黒い影を投げ出したのもお花が第一の口切りであった。しかしお花が自分に対してそんな無責任な嘘をつこうとは、お絹もさすがに信じられなかった。
「嘘ですよ。きっと嘘ですよ」と、お君は鰻をのみ込んでしまってまた言った。
子供は正直である。正直なお君の口からこういう保証の詞《ことば》をきかされて、お絹は頼りないなかにも何だか心強いようにも感じた。
苦《にが》い酒も無理に飲んでいるうちに幾らか酔いがまわってきて、自分ひとりでくよくよ考えていても詰まらないというような浮いた気も起った。このあいだから自分の小屋へ足ちかく見物にくる若旦那ふうの男があって、それは浅草の質屋の息子だとお花が話したことも思い出された。その男もまんざらの男振りではないなどとも考えた。自分が舞台から情《じょう》のこもった眼を投げれば、かれを捕虜《とりこ》にすることはさのみむずかしくもないというような、一種の誇り心も起った。そうは思っても、やはり林之助が恋しかった。
お絹とお君が夜露にぬれて一つ目の家へ帰り着いたのは、その夜の五つごろ(午後八時)であった。家には毎日留守番をたのむ隣りのお婆さんが眠そうな眼をして待っていた。お婆さんはお土産の折《おり》を貰って喜んで帰った。
「君ちゃん。戸をお閉めよ。もうすぐに寝ようじゃないか」
「はい」
お君は素直に格子を閉めにいった。お君は近所の大工の娘で、家の都合がよくないのと、現在の母は生みの親でないのとで、去年からお絹の家《うち》へ弟子とも奉公人とも付かずに預けられているのであった。継《まま》しい母の手に育てられただけに、年の割には何かとよく気が付くので、お絹も彼女を可愛がっていた。
「お寝《やす》みなさい」
眠い盛りのお君は床にはいると直ぐに又たたき起された。寝ぼけまなこを擦《こす》りながら格子をあけて出ると、外には若い男が忍ぶように立っていた。隣りと隣りとの庇合《ひさしあわ》いから落ち込んでくる月のひかりを浴びて、彼の横顔は露を帯びたように白く見えた。
「あら、林さん」
「たいへんに早寝だね」と、林之助は笑っていた。「姐さんはもう寝たのか」
お君にあとを閉めさせ、林之助はずっと奥の六畳へ通ると、お絹はもう寝床から脱け出していた。
林之助は主人の使いで割下水《わりげすい》まで来たので、その帰りにちょっと寄ってみたのだと言った。お君が火消し壺からまだ消えない火種を拾い出して来ると、林之助はとりあえず一服すった。
「どうしたい。顔の色が悪いじゃないか」
「きょうは舞台で倒れたの」
「そりゃあいけない。どうしたんだ」
「なに、すぐに癒ったの。やっぱり暑気あたりだってお医者がそう言って……」
「なにしろ、大事にするがいいぜ。悪いようならば無理をしないで、二、三日休んで養生した方がいいだろう」
「いいえ、それほどでもなかろうと思っているの。いっそひと思いに死んだ方がいいかも知れない」
こんな問答をしているうちにも、お絹は眼にみえない何物をか相手の顔色から見いだそうと努めているように、絶えずその顔をじっと見つめていると、男は女のひとみを恐れるように行燈《あんどう》の暗い方へ眼をそむけていた。
女はこの頃の無沙汰について正面から男を責めようともしなかった。男も言いそそくれたようなふうで、自分からはなんにも言い出さなかった。お絹は長い煙管《きせる》でしずかに煙草をすっていた。
「あたし、考えると、さっきあのままで死んでしまった方が仕合せだったかも知れない。生きていたところで、あんまり面白い世の中でもなし、ひと思いに死んでしまった方が未練が残らなくっていい」
ふた口目には死にたいと繰り返して言うお絹の料簡《りょうけん》を、林之助も大抵は察していた。そんなことを言って自分の気を引いて見るのだということは能く判っていた。ここでうっかりした返事をすると、それを言いがかりに執念深く絡《から》みついて来るお絹のいつもの癖を知っている彼は、なるべく逆らわないように避けているのを唯一の楯《たて》と心得ているので、今夜もおとなしく黙って聞いていた。
「君ちゃん。お酒は無いかい」と、お絹は次の間へ声をかけた。
「いや、そうしちゃあいられない。もうすぐに帰らなけりゃあならないんだ。あんまり無沙汰をしているから、唯ちょいと寄って見たのさ。もう五つ過ぎだ。早く帰らなけりゃならない。御用人《ごようにん》がなかなかやかましいから」と、林之助は煙草をそろそろ仕舞いかかった。
「それだから屋敷者は忌《いや》さ。あたしがあんなに止めたのに、お前さんなぜ行ったの。御用人に叱られたって構わない。屋敷をしくじるように、あたしはふだんから祈っているんだから」
「冗談じゃあねえ」と、林之助は仕方なしに笑った。「いつも言う通り、おれも侍の子だ。いつまでもお前の厄介になって唯ぶらぶらしているのもあんまり口惜《くや》しい、どうにかまあ自分だけの身《み》じんまく[#「じんまく」に傍点]は自分でしなけりゃあならないと思って、窮屈な屋敷奉公も我慢しているんだ。おれの料簡も今にわかる。まあ、お互いにもう少しの辛抱だ」
「へん、久しいものさ」
お絹は煙管を取って又すい始めた。そうして、横眼で男の顔をじろじろ[#「じろじろ」に傍点]眺めていた。その蛇のような眼が男にはおそろしかった。
お絹は色の青白い細面《ほそおもて》で、長い眉と美しい眼とをもっていた。林之助も昔はその妖艶なひとみの力に魅せられたのであった。しかもだんだんと深く馴染むに連れて、殊に一つの屋根の下に朝夕一緒に暮らすようになってから、彼女の妖艶な眼の底に言い知れぬ一種のおそろしい光りの忍んでいることを林之助は漸く発見した。自然の生まれ付きか、あるいは多年もてあそんでいる蛇の感化か、いずれにしてもお絹が蛇のような悽愴《ものすご》い眼をもっていることは争われなかった。お絹が天明五年|巳年《みどし》の生まれであるということも思いあわされて、林之助は迷信的にいよいよ怖ろしくなった。彼がふたたび窮屈の武家生活に立ち戻ろうと思い立ったのも、実はこの怖ろしい眼から逃がれようとするのが第一の目的であった。
しかし林之助は、彼女の怪しい眼を恐れると同時に、彼女のあたたかい情けを忘れるほどの不人情者ではなかった。彼はお絹を振り放そうとは思わなかった。さりとて余りに接近するのも不安であった。つづめて言えば、不即不離《つかずはなれず》というような甚だあいまいな態度で、二人の関係を相変らず繋ぎ合わせて行こうと考えているのであった。恋に対してこうした不徹底な態度を取るということは、決して相手を満足させる方法ではなかった。お絹の胸にいろいろの疑いや妬みの芽をふくのも無理ではなかった。
今夜もそのおそろしい眼と向き合っている。
林之助が努めて相手の視線の外に逃がれ出ようと顔をそむけているのも、彼としてはまことによんどころない事情であった。それが久し振りで逢ったお絹にはなんだか物足りないような、疑わしいもののように思われてならなかった。
二人は又しばらく黙っていた。縁の下では虫の声がきこえた。
四
「林さん。お前さん、お互いにこうしていては詰まらないとお思いでないかえ」
お絹はしずかに煙管をはたきながら、またしても男のこころを探るような疑いぶかい眼をして訊いた。林之助もまともに向き直らないわけにいかなくなった。
「つまる、つまらないの論じゃない。いつも言う通り、今がお互いの辛抱どきだ。そりゃあこうして離れていれば、おれだって寂しいこともある。お前だってああ詰まらないと思うこともあるだろう。しかしそこが辛抱だよ。おれだっていつまでこうしちゃあいない。そのうちにはだんだん出世して給人《きゅうにん》か用人《ようにん》になれまいものでもない。そのあかつきにはお前を引き取るとも、又おまえが窮屈でいやだと言うならばそっと何処へか囲って置くとも、そりゃあ又どうにでも仕様があろうというものじゃあねえか」
林之助の言うことは大道《だいどう》うらないの講釈のように嘘で固めていた。彼の奉公している杉浦中務の屋敷は六百五十石で、旗本のうちでもまず歴々の分に数えられているので、用人や給人はすべて譜代《ふだい》である。渡り奉公の中小姓などが並大抵のことでその後釜に据われる訳のものではない。林之助も無論それを知らない筈はなかったが、この場合、まずこんなことでも言って女の手前をつくろって置くよりほかはなかった。
そうした気休めはもう幾たびか聞き慣れているので、お絹も身に沁みて聞こうとはしなかった。しかしそんな見え透いた嘘をついてまでも、自分の機嫌を取るように努めているらしい男の心は、やはり憎くなかった。
「だけど、お前さん。歴々のお旗本の御用人さまが両国の橋向うの蛇つかいを御新造《ごしんぞ》にする。そんなことが出来ると思っているの」
「表向きは無論できねえ理屈さ。だが、一旦綺麗に足を洗って置いて、それから担当の仮親《かりおや》を拵《こしら》えりゃあ又どうにか故事《こじ》つけられるというものだ。又それが小《こ》面倒だとすれば、今も言う通りどこへか囲っておく。つまり二人が末長く添い通せりゃあ、それで別に理屈はねえ筈だ」
これも去年の冬から何度繰り返しているか判らない。お絹も何度聞いているか判らない。二人が顔を突きあわせれば、いつもこの同じような問題を中心にして、男は的《あて》になりそうもないことを言い、女も的にならないことを知りながら渋々|納得《なっとく》している。その間には言い知れない悩みと寂しさとを感じていながらも、お絹は切るに切れない糸に引き摺られていた。
今夜のお絹には、まだほかに言いたいことがあった。列び茶屋のお里のことが胸いっぱいにつかえていながらも、確かな手証《てしょう》を見とどけていない悲しさには、さすがに正面から切り出すのを差し控えていなければならなかった。それでも、何とかしてこの新しい問題を解決した上でなけれ
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