屋の者も一時は驚いたが、お絹はすぐに楽屋へ担ぎ込まれた。あとは前芸のお花がすこし繋いでいて、それから太夫病気の口上《こうじょう》を述べて、いつもより早目に打ち出した。
お絹がほんとうに人心地の付いたのはそれから半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《はんとき》ばかりの後で、医者はやはり暑気あたりだといった。しかし、さのみに心配するほどのことはない、こうして静かに寝かして置けば自然におちつくに相違ないと気つけの薬をくれて行った。はじめは非常に驚かされた木戸の者も楽屋の者もこれで漸《ようや》くおちついて、見舞の口上などをいってだんだんに帰った。
お絹はもう目をあいていたが、それでもすぐに起きる元気はなかった。枕もとには前芸のお花と小女のお君のほかに地弾きのお辰と楽屋番の豊吉《とよきち》とが残っていた。楽屋にはほかにもう一人お若という前芸の女がいるが、これも暑気あたりで二、三日前から休んでいた。その上にお絹がまた病気引きということになれば、この小屋はあしたから休むよりほかはないと、関係の者はすぐにあしたの糧《かて》を気づかったが、こうなるとみんなも生き返ったような気になった。
「まあ、まあ、なにしろよかった。この二、三日はあんまり残暑がひどいからさ。おまけにこの楽屋はちっとも風がはいらないんだからね」
お辰は病める太夫の枕もとをそっと離れて、楽屋のうしろに垂れている荒筵を少し押し分けると、夕日の光りはもう山の手の高台に隠れて、下町の空は薄い浅黄色に暮れかかっていた。上流《うわて》から一艘の屋根船がしずかに下って来て、大川の秋の水は冷やかに流れていた。近所の小屋もみな打ち出したとみえて、世間は洪水のあとのようにひっそりして、川向うの柳橋の桟橋《さんばし》で人を呼ぶ甲走《かんばし》った女の声が水にひびいて遠く聞えるばかりであった。
「それでも日が落ちると、ずっと秋らしくなるね」と、お辰はもとの枕もとへかえって来た。そうして、お絹の青ざめた頬に団扇の風を軽く送りながら、その力のないひとみを覗き込むようにして訊いた。
「気分はどうですえ。もういいの」
お絹はうなずくように眼をかすかに動かした。今お辰に声をかけられるまで、彼女の魂は夢とうつつの境にさまよいながら、男と自分との楽しい過去や、切《せつ》ない現在や、悲しい未来や、さまざまの恋の姿を胸の奥に描いていたのであった。
林之助が杉浦の屋敷へ住み付くときに、お前は再び侍になってこのわたしをどうしてくれると念を押したら、それは決して心配するな、時節が来ればきっと夫婦になる。蛇つかいの足を洗って相当の仮親《かりおや》をこしらえて、仁科林之助の御新造《ごしんぞ》さまと呼ばせてみせると、男は重い口で自分に誓った。しかしそれは一時の気休めで、自分が武家の女房になれようとは思えなかった。自分でもなりたいとは思わなかった。ここで一旦手を放せば、自分がつかんでいる男は鳥のように逃げてしまって、おそらく再び自分の手へは戻るまい。しょせん男と自分との縁は無いものだと、お絹は止めても止まらない男を出してやるときに、心の底では悲しく諦めていた。
しかし男はその後もたびたび逢いに来てくれた。そうして、時節を待ってくれ、きっと夫婦になると繰り返して言った。いくら嬉しいと思っても、お絹は窮屈な武家の女房にはなりたくはなかった。それでも男がそれほどに自分を思っていてくれるということに就いて、彼女は言い知れない楽しみと誇りをおさえることは出来なかった。彼女は諦めながらもやはり林之助に憬《こが》れぬいていた。男がこの頃ちっとも寄り付かないのを、彼女は病気になるほど怨んでいた。
上《かみ》の御用が忙がしいので屋敷が抜けられない。そういう余儀ない事情があるのを知りながら、男を怨むほどの初心《うぶ》でもない、わからずやでもないと、お絹は自分で自分の値踏みをしていた。しかし、林之助が姿をみせないのはほかに理由《わけ》があるらしい。その疑いが彼女の胸に強い根を張って、もしそれが果たして事実ならば、男を執り殺してやりたいほどに口惜《くや》しく思いつめていた。
うたがいの相手はやはりこの両国の列《なら》び茶屋のお里《さと》という娘で、その店へときどきに林之助が入り込んでいるという噂が、お辰やお花の口から彼女《かれ》の耳にもささやかれた。勿論、茶屋へ行って茶を飲んだからといって不思議はないが、このごろ自分のところへちっとも寄り付かないという事実に照らしあわせると、それが深い意味をもっているように疑われないでもなかった。お絹の疑いは一日増しに根強くなって、もうこの頃ではどうしてもそうなければならないと思われるようになってきた。
「今に証拠を見つけてやる」と、彼女は心のうちで叫んでいた。お辰やお花にも鼻薬《はなぐすり》をやって、お里の店の様子を絶えず探らせようとしていた。
今も夢うつつでその事ばかりを考えていた。もう少し涼しくなると、彼女は鱗形《うろこがた》の銀紙を貼り付けた紅《あか》い振袖を着て、芝居で見る清姫《きよひめ》のような姿になって、舞台で蛇を使うことがある。自分が丁度その姿で男を追い掛けてゆくと、両国の川が日高川《ひだかがわ》になって、自分が蛇になって泳いでゆく。そんな姿がまぼろしのように彼女の眼の前に現われた。と思うと、自分の可愛がっている青い蛇が忽ち一丈あまりの大蛇《だいじゃ》になって、林之助とお里の二人を巻き殺そうとしている。男と女は悲鳴をあげて苦しみもがいている。そんなおそろしい景色が覗きからくり[#「からくり」に傍点]の絵のように彼女の眼の前に展開された。そのからくりの絵はまた変って、林之助と自分とが日傘をさして、のどかな春の日の両国橋を睦まじそうに手をひかれて渡ってゆく……。
それが悲しいか、怖ろしいか、気味がいいか、嬉しいか、お絹もそれをはっきりと意識するには、頭が余りにぼんやりしていた。
「もう一度お茶を飲みませんか」と、お君が声をかけた。
お絹は又もや微かにうなずいた。薬を飲まされて、あたりが少し明かるくなったように思われた。彼女は肱《ひじ》をついて試みに起き直ったが、もう眩暈《めまい》がするようなことはなかった。さっきは舞台で蛇を頸《くび》に巻いていると、その蛇がだんだんに強く絞め付けて来るように思われて、しだいに眼がくらんで気が遠くなった。それから楽屋へ運び込まれるまで、彼女はなんにも知らなかったのである。多年可愛がって使い馴らしている蛇が自分を絞める筈がない。まったく暑気あたりで眼が眩《くら》んだものだと、お絹はその当時のありさまをおぼろげな記憶の中から呼び出した。
「もう何ともありませんか」と、お花も摺り寄って訊いた。
「もう大丈夫、みんなもびっくりしたろうね。堪忍しておくれよ」と、お絹は案外にはきはきした声で言った。
「歩いて帰れますか。駕籠でも呼んでもらいましょうか」と、お花はまた訊いた。
「そうねえ」
お絹は鳩尾《みずおち》をかかえるように俯向きながら考えていたが、ふと何物かがその眼先きをひらめいて過ぎたように、きっと顔をあげた。
「なに、もういいだろう。あたし、あるいて帰るよ。すぐそこだもの」
酔いざめの人のように、まだ何となくふらふら[#「ふらふら」に傍点]する足元を踏みしめて、お絹は花魁《おいらん》のような紅い衣裳をぬぐと、肌襦袢は気味の悪いほどに冷たい汗にひたされていた。お君にからだを拭かせて、島田を解いて結び髪にして、銅盥《かなだらい》の水で顔を洗って、彼女は自分の浴衣に着かえた。ほかの者もみな帰り支度をした。あと片付けをしている豊吉だけを楽屋に残して、女たち四人は初めて外の風に吹かれた。
残暑は日の中のひとしきりで、暮れつくすと大川端には涼しい夕風が行く水と共に流れていた。高く澄んだ空には美しい玉のような星の光りが、二つ三つぱっちりとかがやいて、十四日の月を孕《はら》んでいる本所《ほんじょ》の東の空は、ぼかしたように薄明かるかった。川向うの列び茶屋ではもう軒提灯に火を入れて、その限りない蝋燭の火影が水に流れて黄色くゆらめいているのも、水辺の夜らしい秋の気分を見せていた。
「じゃあ、お大事に……。あしたまた……」
お辰とお花はお絹に挨拶して別れた。お花は帰りに深川のお若の家へ寄って、病気の様子をみて来ると言った。
「そうしておくれよ。あたしだって又なんどき倒れるか知れないから」
お絹はお君に蛇の箱を持たせて本所の方へ行きかけたが、すぐに立ち停まって明るい広小路の方を頤《あご》で指し示した。そうして、両国橋の方へ引っ返すと、お君も素直に黙って付いて行った。外の涼しい風に吹かれてお絹は拭ったようにさわやかな気分になったが、それでも足元はまだ何となくふら付いているので、時どきに橋の欄干によりかかって、なにを見るともなしに川のおもてを見おろしていた。一体どこまで行くつもりか、お君にはちょっと見当が付かなかった。
橋を渡り尽くしてお君も初めてさとった。お絹は列び茶屋の不二屋《ふじや》を目指しているらしく、軒提灯の涼しい灯のあいだを横切って通った。まだ宵ながらそこらには男や女の笑い声がきこえて、麦湯《むぎゆ》の匂いが香ばしかった。不二屋の軒提灯をみると、お絹は火に吸い寄せられた灯取虫《ひとりむし》のように、一直線にその店へはいって行った。ふたりは床几《しょうぎ》に腰をかけると、若い女が茶を汲んで来た。それが娘のお里でないことはお絹も知っているので、さらに身をねじ向けて店のなかを窺うと、お里はほかの客となにか笑いながら話をしていた。
お里はことし十八で、とかくにいろいろの浮いた噂を立てられ易いここらの茶屋娘のなかでも、初心《うぶ》でおとなしい女という評判を取っていることは、お絹もかねて聞いていた。林之助は今年|二十歳《はたち》になるけれども、まるで生息子《きむすこ》のようなおとなしい男であった。おとなしい男とおとなしい女――お絹は林之助とお里とを結びつけて考えなければならなかった。彼女は黙って茶を飲みながら、絶えず後目《しりめ》づかいをして、お里の髪形から物言いや立ち振舞いをぬすみ見ていた。
「たいへんに涼しくなりましたねえ」と、お君はわれ知らずに口から出たように言った。
ことしは残暑が強いので、お絹もお君もまわりの人たちもみな白地を着ていた。その白い影がなんとなく薄ら寂しく見えるほどに、今夜の風は俄かに秋らしくなった。
三
お絹は茶代を置いて床几を立った。
「もうちっとそこらをぶら付いて見ようじゃないか」と、彼女はお君を見返った。「それにしてもお腹《なか》がすいたね。家《うち》へ帰っても仕様がないから、そこらで鰻《うなぎ》でも食べようか。つまらないことを考えていると人間は痩せるばかりだ。ちっと脂っこい物でも食べて肥《ふと》ろうじゃないか」
「あら、姐さん肥りたいの」と、お君は暗いなかで驚いた顔をしているらしかった。
「お前も肥るほうがいいよ。あたしのように痩せっぽちだと、さっきのように直きにぶっ倒れるよ」
こう言ううちにもお絹の眼には、小肥りに肥ってやや括《くく》れ頤《あご》になっている若いお里の丸顔がありありと映った。地蔵眉の下に鈴のような眼をかがやかしている人形のような顔――それがお絹には堪まらなく可愛く思われると同時に、堪まらなく憎いものにも思われた。
「何だってあたしは、あいつの顔をわざわざ見に行ったんだろう」
ひょっとすると、そこに林之助を見つけ出すかも知れないと思わないでもなかったが、お絹はそれよりもまずなんとなくお里の様子が見たかったのであった。見てどうするということもない。まさかに喧嘩を売るわけにもいかない。大儀《たいぎ》な足を引き摺って長い橋を渡って、飲みたくもない茶を飲みに来たのは、自分ながら馬鹿ばかしいようにも思われた。お絹は列び茶屋や夜店の前を通りぬけて、広小路|最寄《もよ》りの小さい鰻屋の二階へあがった。
「もう気分はすっかりいいんですか」と、お君はまた訊いた。
「ああ、もう大丈夫だよ」
お君に酌
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