いても涙を誘われることが多かった。
林之助はことしの秋のわびしさに堪えられなかった。
十二
薬が煎じつまったので、お君はお絹を起しに行った。そっと揺り起されて、お絹は眼をとじたままで訊いた。
「林さん。まだそこにいるの」
林之助はぎょっとして見返った。
「あたし、何だかうつつのように林さんが枕もとにいると思ったけれども、夢だったかしら」と、お絹は言った。
林さんはさっきから来ているとお君が言うと、お絹は初めて眼をあいた。林之助も起《た》って枕もとへ行った。
「やっぱり来ていたのね。どうもそうらしいと思った」と、お絹はさびしくほほえんだ。「もうお前さん、来てくれやしまいと思ったのに……」
「冗談いっちゃいけない。いつも言うようだが、屋敷の方にも御用が多いので、夜でも昼でも勝手に出るという訳には行かねえからね。このあいだ来た時からきょう初めて外へ出たんだ。誰にきいても判る。そりゃ嘘じゃあねえ。なにしろいつまでも悪くっちゃ困ったものだ。精出して養生しねえよ」
「お前さん、たいへんやさしくなったね」と、お絹はまた笑った。「どうでもう長いことはないんだから、少しはいたわってくれるのもいいのさ」
「病いは気からというぜ。しっかりしてくれ」
林之助はお絹を抱き起すようにして薬を飲ませてやった。そうして、まだ若いからだだから、どんな病気でも養生次第で癒《なお》らないことはない。気を弱く持たないで、ゆっくりと療治をしてくれと、子供をすかすように言って聞かせると、お絹も素直に聞いていた。
しかし今度の病気ばかりは容易に癒りそうにも思われない。お前さんにほんとうの親切があるならば、屋敷から幾日かの暇を貰うか、それとも一生の暇を取るか、どっちにしても当分はからだをあけて、あたしの枕許へ来ていてくれ。その上でお前さんの看病がとどいて癒れば重畳《ちょうじょう》、万一これぎりに死んでも思い残すことはない。あたしはどうかしてお前さんをもう一度自分の手許へ引き戻そうと念じているうちに、とうとうこんな病気になってしまった。せめて死にぎわにはお前さんの手から一杯の水でも飲ませて貰いたいと、お絹はしみじみ言った。
「林さん。いやかい」
まぶたは押しつぶしたように落ち窪んでいても、餌《えさ》を狙うような蛇の眼が底の方に光っていた。今のやせ衰えたお絹の顔にはそれが一層ものすごく見えたので、林之助は今更のように身がすくんだ。彼はどうしても忌《いや》とは言われなくなった。あとはともあれ、この場では一応承知したと言わなければならないように思われた。
「よし、よし、判った。しかし武家奉公というものは面倒なもので、親のかたきを探しに出るからといって、きょうが今日すぐに暇《ひま》をくれるわけのものじゃあねえ。長《なが》の暇《いとま》を貰うにしても今すぐという訳にはいかねえから、屋敷にいる間はなんとか都合して毎日見舞いに来る。さっきもお君に頼んで置いたんだが、急な用ができたら直ぐに豊吉を迎いによこしてくれ。いつでも直ぐに飛んで来るから。ね、それでいいだろう」
「欺《だま》すんじゃあるまいね」と、念を押してお絹は納得《なっとく》した。
彼女はお君に、もう何どきだと訊いた。さっき八幡鐘の七つを聞いたとお君が言うと、それでは林さんの好きな蒲焼でもあつらえろとお絹は寝ながら指図した。なに、そうはしていられないと林之助は言ったが、さすがに振り切って起ちかねていると、お君はすぐ近所の鰻屋へ駈けて行った。
「林さん、新しい袷なんぞ着て粧《めか》しているんだね」と、お絹は仰向いて男の姿をながめた。
「むむ、これか」と、林之助は袷の膝をなでた。「そら、いつか話したことがあるだろう。この四月に新しく拵《こさ》えて、一度も手を通さねえで蔵入《くらい》りにした奴さ。秋風が立っちゃあ遣り切れねえから、御用人を口説いて二歩借りて、これと一緒に羽織や冬物を受けて来た」
「不二屋へ運ぶのが忙がしいから、身のまわりなんぞには手が届かねえのさ」と、お絹は笑った。「御用人さんに二歩借りて、それをどうして返すの」
「都合のいい時に返すのさ。まさか利も取るめえ」と、林之助も笑った。
「おまえさんにも都合のいい時があるのかしら。ちょいと、お前さん。この蒲団の左の下から紙入れを出して頂戴な」
言われた通りに林之助は紙入れを取って渡すと、お絹はそのなかから二歩を出した。
「暇を貰おうという矢先きに、借りなんぞあっちゃ拙《まず》いから、よくお礼をいって、御用人に早く返しておしまいなさいよ」
「だが、こっちも病気で物入りの多いところだろう」と、林之助は手を出しかねて、もじもじ[#「もじもじ」に傍点]していた。
「なに、こっちは又どうにかなるから」
二歩の銀《かね》を手に握って、林之助は気の毒でもあり、
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