い姿が浮き出した。林之助は白地の寝衣《ねまき》を着ていた。
「林さん」
 声をかけて寄ろうとするお絹を、男は押し戻すようにして門の外へ出た。ふたりは長屋の窓下を流れている小さい溝《どぶ》のふちに立った。溝の石垣のなかに、こおろぎがさびしく鳴いていた。
「おい、どうしたんだ。今時分こんなところへやって来て……」と、林之助は小声で叱るように言った。
「お前さんに逢いたくって……」
「馬鹿」と、林之助はまた叱った。
 武家奉公の林之助が両国の蛇つかいに馴染みがあるなどということは、もちろん秘密にしなければならない。どんなことがあっても屋敷へ訪ねて来てはならないと、かねて固く言い含めてあるのに、夜中だしぬけに御門を叩いて自分をよび出しに来るとは、あんまり遠慮がなさ過ぎると、林之助は呆れて腹が立った。
「どうで馬鹿ですから堪忍してください。あたし、今夜はどうしてもお前さんに逢いたくって、逢いたくって……」
 その酒臭い息と、もつれた舌とで、女がひどく酔っているのを林之助は早くも覚った。なまじいここでぐずぐず言っているよりも、だまして早く追い返した方が無事らしいと気がついて、彼はそこに待っている駕籠屋を呼んだ。
「おい、おい。この女はだいぶ酔っているようだ。気をつけて送ってくれ。お絹、いずれあした逢って詳しい話を聞くから、今夜はおとなしく帰ってくれ」
「あい」
「それとも何か急に用でも出来たのか」
 返事に困ってお絹はぼんやりと黙っていた。
 ふとした浮気からお花に誘い出されたが、さて行って見ると面白くないことだらけで、胸のむしゃくしゃに堪えないお絹は、その反動で林之助が遮二無二《しゃにむに》恋しくなった。飛び立つほどに逢いたくなった。殊に酒にはしたたかに酔っているので、彼女は前後の考えもなしに自分の駕籠をこの屋敷まで送らせたのであったが、来てみると別に用はない。彼女は林之助の顔を見ると、張りつめた気が急にゆるんで、狐の落ちた人のようにぼんやりしてしまった。
 それでも直ぐにおとなしく帰ろうとはしなかった。
「おまえさん、今夜出られないの」
「どこへ行くんだ」
「あたしの家《うち》へ……」
 もう一度「馬鹿」と言いたいのを林之助は喉《のど》へのみ込んで、今夜これから出るわけにはいかない。あしたはこっちからきっと訪ねて行くから待っていろと、賺《すか》すように言い聞かせて、無理に女の手をとって駕籠に乗せようとすると、お絹は男の腕へぶら[#「ぶら」に傍点]下がるようにして処女《きむすめ》のようなあどけない甘えた声で言った。
「林さん。あたし、これからは何でもお前さんのいうことを素直に聞きますからね。不二屋へ行っちゃあいやよ。え、よくって」
「承知、承知」
 銀河《あまのがわ》はいつか消えて、うす白い空の光りはどこにも見えなかった。お絹を乗せてゆく駕籠の端《はな》を、影の痩せた稲妻が弱く照らした。袖をかきあわせて立っている林之助の寝衣《ねまき》の襟に、秋の夜露が冷《ひや》びやと沁みて来た。
「遅く門をあけさせて、気の毒だったな」
 門番に挨拶して林之助は自分の部屋へ帰った。
 寝入りばなを起された彼は、目が冴えて再び眠られなかった。お絹は今夜なにしに来たのであろう。おそらく酒に酔った勢いで唯なにが無しにここへ押し掛けて来たものと解釈するよりほかはなかった。この頃だんだんに狂女染みて来るお絹の乱れ心を林之助は悲しく浅ましく思った。これがいよいよ嵩《こう》じて来たら何を仕いだすかも判らない。真っ昼間、ここの玄関へ乗り込んで来るかも知れない。その暁《あかつき》には自分の身はなんとなる。林之助は去年のわびしい浪人生活を思い出さずにはいられなかった。お絹のものすごい眼に絶えず見つめられている怖ろしさと苦しさとを恐れずにはいられなかった。
 お絹は自分を本所の家《うち》へ再び引き戻そうと念じている。冗談ではあろうが、屋敷をしくじるように祈っていると言ったこともある。あるいは今夜を手始めに、これからたびたびここへ押し掛けて来て、所詮《しょせん》この屋敷にはいたたまれないように仕掛けるのではあるまいかと、林之助はまた疑った。時節を待てとあれほど言って聞かせてあるのに、まだ判らないのかと林之助は腹立たしくもなった。彼は又もやお絹とお里とをくらべて考えた。お絹と深く馴染む前に、なぜ早くお里を見付け出さなかったのであろうと今更のように悔まれた。そうして、ふた口目には不二屋のことを言って、執念ぶかく絡《から》みかかるお絹の妬みがうるさくなった。おれはどうしても蛇の眼から逃がれることが出来ないのであろうか。これも因果と諦めてしまわなければならないのであろうか。おれは忌《いや》らしい蛇の縛《いまし》めを解いて、ほんとうの女と人間らしい恋をすることは出来ないのであろうか。

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