らふら[#「ふらふら」に傍点]する足元を踏みしめて、お絹は花魁《おいらん》のような紅い衣裳をぬぐと、肌襦袢は気味の悪いほどに冷たい汗にひたされていた。お君にからだを拭かせて、島田を解いて結び髪にして、銅盥《かなだらい》の水で顔を洗って、彼女は自分の浴衣に着かえた。ほかの者もみな帰り支度をした。あと片付けをしている豊吉だけを楽屋に残して、女たち四人は初めて外の風に吹かれた。
残暑は日の中のひとしきりで、暮れつくすと大川端には涼しい夕風が行く水と共に流れていた。高く澄んだ空には美しい玉のような星の光りが、二つ三つぱっちりとかがやいて、十四日の月を孕《はら》んでいる本所《ほんじょ》の東の空は、ぼかしたように薄明かるかった。川向うの列び茶屋ではもう軒提灯に火を入れて、その限りない蝋燭の火影が水に流れて黄色くゆらめいているのも、水辺の夜らしい秋の気分を見せていた。
「じゃあ、お大事に……。あしたまた……」
お辰とお花はお絹に挨拶して別れた。お花は帰りに深川のお若の家へ寄って、病気の様子をみて来ると言った。
「そうしておくれよ。あたしだって又なんどき倒れるか知れないから」
お絹はお君に蛇の箱を持たせて本所の方へ行きかけたが、すぐに立ち停まって明るい広小路の方を頤《あご》で指し示した。そうして、両国橋の方へ引っ返すと、お君も素直に黙って付いて行った。外の涼しい風に吹かれてお絹は拭ったようにさわやかな気分になったが、それでも足元はまだ何となくふら付いているので、時どきに橋の欄干によりかかって、なにを見るともなしに川のおもてを見おろしていた。一体どこまで行くつもりか、お君にはちょっと見当が付かなかった。
橋を渡り尽くしてお君も初めてさとった。お絹は列び茶屋の不二屋《ふじや》を目指しているらしく、軒提灯の涼しい灯のあいだを横切って通った。まだ宵ながらそこらには男や女の笑い声がきこえて、麦湯《むぎゆ》の匂いが香ばしかった。不二屋の軒提灯をみると、お絹は火に吸い寄せられた灯取虫《ひとりむし》のように、一直線にその店へはいって行った。ふたりは床几《しょうぎ》に腰をかけると、若い女が茶を汲んで来た。それが娘のお里でないことはお絹も知っているので、さらに身をねじ向けて店のなかを窺うと、お里はほかの客となにか笑いながら話をしていた。
お里はことし十八で、とかくにいろいろの浮いた噂を立てられ易いここらの茶屋娘のなかでも、初心《うぶ》でおとなしい女という評判を取っていることは、お絹もかねて聞いていた。林之助は今年|二十歳《はたち》になるけれども、まるで生息子《きむすこ》のようなおとなしい男であった。おとなしい男とおとなしい女――お絹は林之助とお里とを結びつけて考えなければならなかった。彼女は黙って茶を飲みながら、絶えず後目《しりめ》づかいをして、お里の髪形から物言いや立ち振舞いをぬすみ見ていた。
「たいへんに涼しくなりましたねえ」と、お君はわれ知らずに口から出たように言った。
ことしは残暑が強いので、お絹もお君もまわりの人たちもみな白地を着ていた。その白い影がなんとなく薄ら寂しく見えるほどに、今夜の風は俄かに秋らしくなった。
三
お絹は茶代を置いて床几を立った。
「もうちっとそこらをぶら付いて見ようじゃないか」と、彼女はお君を見返った。「それにしてもお腹《なか》がすいたね。家《うち》へ帰っても仕様がないから、そこらで鰻《うなぎ》でも食べようか。つまらないことを考えていると人間は痩せるばかりだ。ちっと脂っこい物でも食べて肥《ふと》ろうじゃないか」
「あら、姐さん肥りたいの」と、お君は暗いなかで驚いた顔をしているらしかった。
「お前も肥るほうがいいよ。あたしのように痩せっぽちだと、さっきのように直きにぶっ倒れるよ」
こう言ううちにもお絹の眼には、小肥りに肥ってやや括《くく》れ頤《あご》になっている若いお里の丸顔がありありと映った。地蔵眉の下に鈴のような眼をかがやかしている人形のような顔――それがお絹には堪まらなく可愛く思われると同時に、堪まらなく憎いものにも思われた。
「何だってあたしは、あいつの顔をわざわざ見に行ったんだろう」
ひょっとすると、そこに林之助を見つけ出すかも知れないと思わないでもなかったが、お絹はそれよりもまずなんとなくお里の様子が見たかったのであった。見てどうするということもない。まさかに喧嘩を売るわけにもいかない。大儀《たいぎ》な足を引き摺って長い橋を渡って、飲みたくもない茶を飲みに来たのは、自分ながら馬鹿ばかしいようにも思われた。お絹は列び茶屋や夜店の前を通りぬけて、広小路|最寄《もよ》りの小さい鰻屋の二階へあがった。
「もう気分はすっかりいいんですか」と、お君はまた訊いた。
「ああ、もう大丈夫だよ」
お君に酌
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