居ないことを知っているので、林之助はお絹を東両国の小屋にたずねると、お絹もお君も見えなかった。お絹はきのうの朝から気分が悪いのを、無理に押して楽屋へはいったが、どうしても中途で我慢ができなくなった。このあいだのように舞台で倒れるようなことがあっては大変だとみんなも心配して、中入り前に家へ送って帰したが、それから続いて気分もすぐれないで、きょうもとうとう休むことになった。折角の書入れ日に雨は降る、姐さんには休まれる、いやいや散々《さんざん》ですと、楽屋番の豊吉がこぼし抜いていた。
「まあ、一服おあがんなさいまし」
 豊吉に煙草盆を出され、林之助も直ぐには起たれなかった。殊に楽屋じゅうの者ともみんな顔を識り合っているので、彼はしめっぽい座蒲団の上に片膝をおろして、煙草をすいながら二言《ふたこと》三言つまらないことを話していた。豊吉を除いて、ほかの女たちはさすがにそれぞれ小綺麗な単衣《ひとえもの》を着ていたが、それでもめっきり涼しくなったと寂しそうに言うかれらの顔の上には、だんだんに冬に近づくのを悲しむような薄暗い色が浮かんでいた。昼でも楽屋の隅には痩せた蚊が唸っていた。
「ごめんなさい」と、お花は林之助に会釈《えしゃく》して舞台へ出て行った。出るときに豊吉を見返って、火鉢の大薬罐《おおやかん》を頤《あご》でさした。
「あたしの引っ込んで来るまでに、よく沸かして置いて頂戴よ。からだを拭くんだから」
「あい、あい」
「姐さんがいないと思って乙《おつ》う幅を利かすね」と、お若はお花のうしろ姿を見送って言った。
「へん、馬鹿にしていやあがる」と、豊吉は罵るように言った。「からだが拭きたけりゃ大川へでもぽんぽん[#「ぽんぽん」に傍点]飛び込むがいいや」
「でも、きょうは姐さんの代りを勤めているんだから、仕方がないさ」と、お若は妬ましそうに言った。
「姐さんはよっぽど悪いのかね」
 林之助に訊かれて、お若はすぐにうなずいた。
「そりゃまったく悪いらしいんですよ。なんでもおとといの晩は大変にお酒を飲んで、夜風に吹かれてそこらを夜なかまでうろうろ[#「うろうろ」に傍点]していたんで、風邪を引いたらしいですよ」
「おとといの晩……」と、林之助はすこし考えた。「一体どこでそんなに飲んだんだろう」
 ふだんからお花とは余り仲のよくないらしいお若は、この問いに対して無遠慮にべらべら[#「べらべ
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