執り殺すなら、殺してみろ」
 こういう口の下から、彼は言い知れぬ恐怖に囚《とら》われて、とてもお絹の呪いに堪えられないような不安をも感じた。これまでの義理も捨てられなかった。うるさいとは思いながらも、その情けのこまかい味わいを忘れることはできなかった。考え疲れた彼のあかつきの夢は、胸へ這いあがって来る青い蛇にうなされた。
 あくる朝はなんだか気分が快《よ》くなかった。ゆうべよく眠れなかったのと、寝衣《ねまき》で夜露に打たれたのとで、からだが鈍《だる》いようにも思われた。お絹をたずねる約束をはっきり記憶していながらも、林之助は早朝から屋敷を出てゆく元気もなかった。そのうちに主人の使いで牛込まで行かなければならないことになったので、彼はとうとう両国橋を渡る機会を失ってしまった。
「留守にまた押し掛けて来やあしまいか」
 あやぶみながら帰って来たが、お絹はきょうは姿を見せなかったらしい。誰もたずねて来なかったという門番の話を聴いて林之助はまずほっとした。その日は一日陰っていて、夕方から霧のような雨がしとしと[#「しとしと」に傍点]と降って来た。急に袷《あわせ》が欲しいほどに涼しくなって、疝気《せんき》もちの用人はもう温石《おんじゃく》を買いにやったなどといって、蔭で若侍たちに笑われていた。
 雨はその晩から明くる日まで降り通した。きょうの花火はお流れであろうと、林之助は雨の音をわびしく聞いた。そうして、雨の降る日にでも遊びに来てくれと、このあいだの晩お里にささやかれたことを思い出した。しかし彼はどうしてもお絹の方へ行かなければならないと思い直した。きょうも午《ひる》さがりでなければ出られなかったので、八つ(午後二時)少し前に屋敷を出て、冷たい雨のなかを両国へ急いだ。
 打ちどめの花火を雨に流された両国の界隈は、みじめなほどに寂れていて、列《なら》び茶屋も大抵は床几《しょうぎ》を積みあげてあった。野天商人《のでんあきんど》もみな休みで、ここの名物になっている鰯《いわし》の天麩羅や鰊《にしん》の蒲焼の匂いもかぐことはできなかった。秋の深くなるのを早く悲しむ川岸の柳は、毛のぬけた女のように薄い髪を振りみだして雨に泣いていた。荷足船《にたりぶね》の影さえ見えない大川の水はうす暗く流れていた。
 林之助も暗い心持ちで長い橋を渡った。

     九

 今頃|自宅《うち》へ行っても
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