ている。人目には妬《ねた》ましく見えそうなこの姿を、お絹が見たらなんと思うであろう。林之助は自分のうしろから蛇の眼がじっと覗いているようにおののかれて、俄かにあたりを見まわすと、明るい月は頭の上から二人をみおろして、露の沁み込んだ大道の上に二つの影絵を描いていた。夜ももう更けているらしかった。
「いつも一人で帰るの」
「いいえ」
列び茶屋の或る家に奉公しているお久《ひさ》という女がやはりお里の近所に住んでいるので、毎晩誘いあわせて一緒に帰ることにしていたが、きょうはその女が店を休んだので、お里は連れを失って寂しく帰る途中であった。彼女が顔馴染みの林之助に声をかけたのも、ひっきょうは帰り途のさびしいためであった。この頃、柳原の堤《どて》に辻斬りが出るという物騒な噂があるので、お里はそんなことを言い出して足がすくむほど顫《ふる》えていた。しかしそれは闇夜のことで、昼のように明るい月夜に辻斬りなどがめったに出るものではないと、林之助は力をつけるように言い聞かせた。向柳原へ帰る彼は、堤の中途から横に切れて、神田川を渡らなければならなかった。
「わたしはあっちへいくんだから、ここでお別れだ。まあ気を付けて……」
「はい。ありがとうございます」と、お里は頼りないような声で挨拶した。
それが何となしに哀れを誘って、林之助はいっそ彼女の家まで一緒に送って行ってやろうかとも思ったが、自分も屋敷の門限を気遣っているので、このうえ道草を食っているわけにはいかなかった。そのままお里に別れて橋を渡り過ぎながらふと見かえると、堤の柳は夜風に白くなびいて、稲荷のやしろの大きい銀杏《いちょう》のこずえに月夜|鴉《がらす》が啼いていた。白地の浴衣を着て俯向き勝ちに歩いてゆくお里のうしろ姿が、その柳の葉がくれに小さく見えた。
五、六間もゆき過ぎたかと思うと、あずま下駄のあわただしい音が、うしろから林之助を追って来た。振り向いてみると、それはお里であった。彼女は林之助にわかれると急に寂しく心細くなったので、ちっとぐらい廻り路をしてもいいから、自分も柳原堤をまっすぐに行かずに、林之助と一緒に向柳原へまわって、それから外神田へ出ようというのであった。ふたりはまた一緒にあるき出した。
「しかし、向柳原まで来ちゃあ余程の廻り路になる。じゃあ、いっそわたしがお前の家まで送ってあげよう」と、林之助も見かねて言
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