たしに構わずに寝ておしまいよ」と、お絹はうるさそうに俯向きながら言った。
 お君は起って格子を閉めに行ったが、やがて引っ返して来てお絹の枕もとに坐った。縁の下でじいじい[#「じいじい」に傍点]と刻んでゆくような虫の声が又もや耳についた。どこかの隙き間から忍び込んで来る夜の冷たい風に、行燈のうす紅い灯が微かにちろちろ[#「ちろちろ」に傍点]と揺らめいて、痩せおとろえた秋の蚊がその火影に迷っていた。
「もうお前、お寝よ。あしたの朝、眠いから」
「あたし、今夜は起きていますわ」
「あたしはもういいんだよ」
「でも、こんなに癇がたっていて、どんなことがあるかも知れませんもの。姐さん、ほんとうにからだを大事にしてくださいよ」
「いいよ、判っているよ」と、お絹は邪慳《じゃけん》に叱りつけた。
 叱られてもお君はまだそこにしょんぼりと坐っていた。露地のなかで犬の声がきこえたので、もしや林之助がまた引っ返して来たのではないかと、お君はそっと起って行って雨戸の外に耳を澄ましたが、犬の声はしだいに遠くなって、溝板《どぶいた》の上には誰も忍んでいるような気配もきこえなかった。
「誰か来たの」と、お絹は急に顔をあげた。
「いいえ」と、お君は枕もとへそろそろとまた戻って来た。
「お前、いい加減にしてお寝よ」
「ええ」と、お君はまだ渋っていた。
「言うことを聞かないと承知しないよ」
 枕をつかんで叩き付けそうな権幕をみせても、お君はまだ強情に動かなかった。黙って坐っている彼女の小さい眼からは白いしずくがほろほろ[#「ほろほろ」に傍点]と流れていた。それを見ると、お絹は急に堪まらなくなったように、蒲団の上から滑り出してお君のからだを横抱きにしっかりと抱えた。
「君ちゃん、堪忍しておくれよ。あたし、この頃は時どきに癇が起るんだからね。もうなんにも叱りゃあしないよ。ね、ね、いいだろう。これからはいつまでも仲よくしようね」
 お君の濡れた顔をじっと見つめながら、お絹は自分も子供のようにしくしくと泣き出した。なんとも言い知れない悲しさが胸の底から滲《にじ》み出して、お君も抱かれながらに啜《すす》り泣きをやめなかった。

     五

 お絹のおそろしい眼から逃れた林之助は、大川端《おおかわばた》まで来て初めてほっとした。十四日の大きい月はなかぞらに真ん丸く浮き上がって、その影をひたしている大川の波は銀
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