ば、男を今夜このままに帰したくないので、彼女はだまって俯向きながら、林之助を無理にひきとめる手だてをいろいろに工夫していた。
 男も立端《たちは》を失ったように、一度しまいかかった袂落《たもとおと》しの煙草入れを又あけて、細い銀煙管から薄いけむりを吹かせていたが、その吸い殻をぽん[#「ぽん」に傍点]と叩くのをきっかけに、今度は思い切って起ちあがった。
「まあ、からだを大事にするがいい。又近いうちに来るから」
「列び茶屋へばかり行かないでね、ちっとこっちへも来てくださいよ」
 思い余ったお絹の口から忌味《いやみ》らしいひと言がわれ知らずすべり出ると、林之助は少し顔をしかめて立ち停まった。
「列び茶屋へ行く……。誰が」
「お前さんがさ。みんな知っているよ」
 乗りかかった船で、お絹もこう言った。
「へん、つまらねえことを言うな」
 問題にならないというような顔をして、男はすたすた[#「すたすた」に傍点]出て行こうとした。
 そのうしろ姿をじっと見つめているうちに、お絹は物に憑《つ》かれたように俄かにむらむら[#「むらむら」に傍点]と気が昂《た》って来た。彼女は不意に起ちあがって長火鉢の角につまずきながら、よろけかかって男の肩にしがみついた。
「林さん。おまえさん、ずいぶん薄情だね」
 だしぬけに鋭いヒステリックの声を浴びせられて、気でも違いはしないかというように、林之助は呆気《あっけ》にとられた顔をしてお絹をみると、彼女のものすごい眼は上吊《うわづ》っていた。その声はもう嗄《か》れていた。
「お前さん、あたしというものをどうして呉れるつもりなの。おまえさんを屋敷へやった以上は、どうで二人のあいだに長い正月のないことはあたしも大抵あきらめていたけれども、目と鼻の広小路へ来て列び茶屋の娘とふざけ散らしている。そんなことをされて、おとなしく見物しているあたしだと思っているのかえ」と、お絹は早口に言った。「いつもいう通り、蛇は執念ぶかいんだから、そう思っておいでなさいよ」
「列び茶屋の娘……。そりゃあ思いもつかねえ濡衣《ぬれぎぬ》だ。なるほど友達のつきあいで、列び茶屋の不二屋へ此中《このじゅう》ちょいちょい遊びに行ったこともあるが、なにも乙に絡《から》んだことを言われるような覚えはねえ。こう見えてもおれは大川の水、あっさりと清いものだ」
「悪くお洒落でないよ」と、お絹は男の肩を
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