。お前だってああ詰まらないと思うこともあるだろう。しかしそこが辛抱だよ。おれだっていつまでこうしちゃあいない。そのうちにはだんだん出世して給人《きゅうにん》か用人《ようにん》になれまいものでもない。そのあかつきにはお前を引き取るとも、又おまえが窮屈でいやだと言うならばそっと何処へか囲って置くとも、そりゃあ又どうにでも仕様があろうというものじゃあねえか」
林之助の言うことは大道《だいどう》うらないの講釈のように嘘で固めていた。彼の奉公している杉浦中務の屋敷は六百五十石で、旗本のうちでもまず歴々の分に数えられているので、用人や給人はすべて譜代《ふだい》である。渡り奉公の中小姓などが並大抵のことでその後釜に据われる訳のものではない。林之助も無論それを知らない筈はなかったが、この場合、まずこんなことでも言って女の手前をつくろって置くよりほかはなかった。
そうした気休めはもう幾たびか聞き慣れているので、お絹も身に沁みて聞こうとはしなかった。しかしそんな見え透いた嘘をついてまでも、自分の機嫌を取るように努めているらしい男の心は、やはり憎くなかった。
「だけど、お前さん。歴々のお旗本の御用人さまが両国の橋向うの蛇つかいを御新造《ごしんぞ》にする。そんなことが出来ると思っているの」
「表向きは無論できねえ理屈さ。だが、一旦綺麗に足を洗って置いて、それから担当の仮親《かりおや》を拵《こしら》えりゃあ又どうにか故事《こじ》つけられるというものだ。又それが小《こ》面倒だとすれば、今も言う通りどこへか囲っておく。つまり二人が末長く添い通せりゃあ、それで別に理屈はねえ筈だ」
これも去年の冬から何度繰り返しているか判らない。お絹も何度聞いているか判らない。二人が顔を突きあわせれば、いつもこの同じような問題を中心にして、男は的《あて》になりそうもないことを言い、女も的にならないことを知りながら渋々|納得《なっとく》している。その間には言い知れない悩みと寂しさとを感じていながらも、お絹は切るに切れない糸に引き摺られていた。
今夜のお絹には、まだほかに言いたいことがあった。列び茶屋のお里のことが胸いっぱいにつかえていながらも、確かな手証《てしょう》を見とどけていない悲しさには、さすがに正面から切り出すのを差し控えていなければならなかった。それでも、何とかしてこの新しい問題を解決した上でなけれ
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