馴染んだ時のことや、本所の家に一緒に暮らしていた時のことや、自分がここへ来てから後のことや、いろいろの思い出がそれからそれへと湧き出して、彼の眼は絶え間なしにうるんだ。お絹はやはり生かして置きたかった。憂しと見し世ぞ今は恋しきとはよく言ったものだと、彼は今更のように感じた。
明くる日は主人が登城の当日で、林之助は何を考えている間《ひま》もなかった。彼は用人に叱られないようにかいがいしく働いた。登城もとどこおりなく済んで、主人が屋敷へもどって来ると、彼もまず荷を卸したように思った。お絹の葬いはきょうの暮れ方と聞いているので、たとい途中の見送りは出来ないまでも、せめて門送《かどおく》りだけでもしたいと思って、彼は早々に屋敷を出た。出るさきになって気がついたのは、お里の母の死を聞いた時とおなじように、彼は幾らかの銀《かね》を用意して行かなければならない事である。いつもの場合と違って、彼は空手《からて》でお絹の家の格子をくぐるわけにはいかなかった。
このあいだの二歩がまだ返してないので、林之助は又もや用人に頼むことも出来なかった。屋敷じゅうにはほかに融通の付きそうな人物は見付けられなかった。彼は苦しまぎれに門番の老爺《おやじ》を口説いた。門番は内職をして小金を溜めているということを知っているからであった。
門番は素直に貸してくれないのを林之助はいろいろに頼んだ。それでも彼は肯《き》かなかった[#「肯《き》かなかった」は底本では「肯《き》かなった」]。門番は林之助が蛇つかいの小屋や列び茶屋へ足近く入り込むことを知っているので、彼の銀《かね》の入り途を疑って、そういう不信用の人間に大事の金を貸されないというような口ぶりで、あくまでも頭《かぶり》を振り通した。
林之助も根負けがして、仕方がなしに屋敷を出たが、どう考えても空手では行かれなかった。彼は友達の梶田弥太郎のところへ行って頼もうと思ったが、これから訪ねて行っても果たして家に居るかどうだか判らなかった。居たところできっとその銀が出来るかどうかも疑問であった。そんなことに暇取っているうちに、葬いが出てしまっては何にもならないと、林之助はむやみに気が急《せ》いた。
「ええ、もう仕方がない」
彼は思い切って馴染みの質屋へかけ込んで、大小を投げだして銀を借りた。武士の大小であるから片時《へんし》も離すことはできない。今夜じ
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