た。
 林之助が杉浦の屋敷へ住み付くときに、お前は再び侍になってこのわたしをどうしてくれると念を押したら、それは決して心配するな、時節が来ればきっと夫婦になる。蛇つかいの足を洗って相当の仮親《かりおや》をこしらえて、仁科林之助の御新造《ごしんぞ》さまと呼ばせてみせると、男は重い口で自分に誓った。しかしそれは一時の気休めで、自分が武家の女房になれようとは思えなかった。自分でもなりたいとは思わなかった。ここで一旦手を放せば、自分がつかんでいる男は鳥のように逃げてしまって、おそらく再び自分の手へは戻るまい。しょせん男と自分との縁は無いものだと、お絹は止めても止まらない男を出してやるときに、心の底では悲しく諦めていた。
 しかし男はその後もたびたび逢いに来てくれた。そうして、時節を待ってくれ、きっと夫婦になると繰り返して言った。いくら嬉しいと思っても、お絹は窮屈な武家の女房にはなりたくはなかった。それでも男がそれほどに自分を思っていてくれるということに就いて、彼女は言い知れない楽しみと誇りをおさえることは出来なかった。彼女は諦めながらもやはり林之助に憬《こが》れぬいていた。男がこの頃ちっとも寄り付かないのを、彼女は病気になるほど怨んでいた。
 上《かみ》の御用が忙がしいので屋敷が抜けられない。そういう余儀ない事情があるのを知りながら、男を怨むほどの初心《うぶ》でもない、わからずやでもないと、お絹は自分で自分の値踏みをしていた。しかし、林之助が姿をみせないのはほかに理由《わけ》があるらしい。その疑いが彼女の胸に強い根を張って、もしそれが果たして事実ならば、男を執り殺してやりたいほどに口惜《くや》しく思いつめていた。
 うたがいの相手はやはりこの両国の列《なら》び茶屋のお里《さと》という娘で、その店へときどきに林之助が入り込んでいるという噂が、お辰やお花の口から彼女《かれ》の耳にもささやかれた。勿論、茶屋へ行って茶を飲んだからといって不思議はないが、このごろ自分のところへちっとも寄り付かないという事実に照らしあわせると、それが深い意味をもっているように疑われないでもなかった。お絹の疑いは一日増しに根強くなって、もうこの頃ではどうしてもそうなければならないと思われるようになってきた。
「今に証拠を見つけてやる」と、彼女は心のうちで叫んでいた。お辰やお花にも鼻薬《はなぐすり》をやっ
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