いいからお帰り」
 お絹に頭を撫でられて、蛇はおとなしく首を引っ込めた。彼女が再び箱をたたくと、待ちかねていたように第二の青い蛇が穴から首を出した。お絹はかれにも神酒と米をあたえた。そうして、同じようにあたしを忘れるなと言って聞かせた。かれが穴に隠れると更に第三の青い蛇が頭をあらわして、これもお絹の手から神酒と米とを授けられて、嬉しそうに首を垂れていた。彼女はその蛇の首をつかんで穴からずるずるとひき出すと、蛇は二つに裂けた紅い舌を火焔《ほのお》のようにへらへら[#「へらへら」に傍点]と吐き出しながら、お絹の痩せた手首へたわむれるように絡《から》みついた。
 ※[#歌記号、1−3−28]銚子《ちょうし》出るときゃ涙で出たが……
 小声で唄いながら、お絹は片手で膝をたたいて拍子を取ると、蛇はなめらかな膚《はだ》に菱形《ひしがた》の尖った鱗《うろこ》を立てて、まぶたのない眼を眠るようにとじた。しかしかれはいつまでも安らけくその音楽を聞いていることを許されなかった。
 ※[#歌記号、1−3−28]今じゃ銚子の風もいや……
 唄の声がふるえながら消えると同時に、彼女は尾の先きをつかんで、ずるずると手首から引きほどかれた。
「君ちゃん。お前、知っているだろう。こうして、こうするんだよ」
 尾をつかまれた蛇は縄をわがねたように円を描いて、空を二つ三つ舞ったかと思うと、その持ち主の細い頸にくるくるとまき付いた。お絹はお君を見返ってにやりと笑った。お君は身を固くしてじっと見つめていた。
「さあ、いいからお帰り」
 第三の蛇もお絹の頸を離れて、もとの箱の穴へ追いやられた。
「あたしが死んだらば、お前もやっぱりこの商売になるかえ」と、お絹は訊いた。
「あたし、巳年《みどし》でないから駄目ですわ」
「そうとも限らない。お若だって巳年じゃないけれど……」と、お絹は考えていた。「だが、まあ、止した方がよかろうよ。こんな商売するもんじゃない。あたしだって、こんな商売でなけりゃあ男に愛想をつかされなかったかも知れない。だけれども、あたしがいなくなると、おまえは家《うち》へ帰らなけりゃなるまい。可哀そうだね」
 お君は両袖で顔を掩いながら啜《すす》り泣きをはじめた。
「おっかさんが違っているんだからね。あたしももう少し達者でいれば、お前の面倒を見てあげられたんだけど……。おたがいに運が悪いんだから仕
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