林さん、あの人はずいぶん薄情だと思うよ」
「あら、林さんはもう少しさっきまで来ていましたよ」と、お君は慌てて打ち消すように言った。
「そう」と、お絹はさびしく笑った。「そりゃあよんどころなしの義理づくさ。あたし、どう考えてもあの人は人情がないと思う」
 一体、ここの家《うち》を逃げ出したというのがすでに頼もしくない。この夏頃からあたしに隠して列び茶屋へ遊びにゆく、それがまた憎らしい。たしかな証拠を握っていないけれど、どうもお里と林之助はひと通りの馴染みではないらしく思われる。証拠がないので今まで堪忍していたが、いよいよこうと見極《みきわ》めが付いたら、あたしは不二屋へ蛇を持って行って、いつかお此を責めたように、お里をむごたらしく責めてやりたい。お里の頸へ蛇をまき付けて、子供が野良犬をひきまわすように両国じゅうを引き摺って歩いてやりたいと思っていた。しかしそれももう出来ない。就いてはあたしの死んだのを幸いに、二人がいい気になって仲よくするようなことがあったら、どうぞあたしに成り代って仇を取ってくれと、彼女はしみじみと言った。
 お君はやはり涙ぐんで聞いていた。
「お前は子供でも蛇という味方があるんだからね。大人だって怖いことはないよ。あたしの魂も蛇に乗りうつって、きっとお前の加勢をしてあげるからね。いいかい」
 もし林之助に見せたら気絶するかも知れないと思われるほどに、お絹のくぼんだ眼はいよいよ物すごく光った。糸のように痩せ細った顔と、この物すごい眼をじっと見つめていると、お絹が蛇か、蛇がお絹か、お君にも判らないほどに怖ろしかった。お絹は枕もとへ蛇の箱を持って来いと言った。
「君ちゃん。神棚の御神酒《おみき》と、それからお米を持って来ておくれ」
 箱はお絹の枕もとに運び出された。彼女はお君にかかえられて蒲団の上に起き直って、自分の尖った膝の上にその箱をのせて貰った。いつものように箱をとんとん[#「とんとん」に傍点]と軽く叩くと、一匹の青い蛇の頭が箱の穴からぬるぬると現われた。お絹は小さい土器《かわらけ》に神酒徳利《みきどっくり》のしずくをそそいで、その口さきへ押しやると、蛇は蜜をなめるように旨そうになめ尽くした。お絹は更に自分の手のひらに米をのせて出すと、蛇はさとい眼で左右を見まわしながら、ひと粒も残さずにのみ込んでしまった。
「お前、あたしを忘れちゃいけないよ。もう
前へ 次へ
全65ページ中58ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング