まりに人工的になって、わざとらしく曲りくねった松を栽《う》えたり、檜葉《ひば》をまん丸く刈り込んだりしてあるのは、折角《せっかく》ながらかえって面白くない。やはり周囲の野趣をそのまま取入れて、あくまでも自然に作った方が面白い。長い汽車旅行に疲れた乗客の眼もそれに因《よ》って如何《いか》に慰められるか判らない。汽車そのものが文明的の交通機関であるからといって、停車場の風致までを生半可な東京風などに作ろうとするのは考えものである。
大きい停車場は車窓から眺めるよりも、自分が構内の人となった方がよい。勿論、そこには地方の小停車場に見るような詩趣も画趣も見出せないのであるが、なんとなく一種の雄大な感が湧く。そうしてそこには単なる混雑以外に一種の活気が見出される。汽車に乗る人、降りる人、かならずしも活気のある人たちばかりでもあるまい。親や友達の死を聞いて帰る人もあろう、自分の病のために帰郷する人もあろう、地方で失敗して都会へ職業を求めに来た人もあろう。千差万別、もとより一概にはいえないのであるが、その人たちが大きい停車場の混雑した空気につつまれた時、誰も彼も一種の活気を帯びた人のように見られる。単に、あわただしいといってしまえばそれまでであるが、わたしはその間に生々した気分を感じて、いつも愉快に思う。
汽車の出たあとの静けさ、殊に夜汽車の汽笛のひびきが遠く消えて、見送りの人々などが静に帰ってゆく。その寂しいような心持もまたわるくない。わたしは麹町《こうじまち》に長く住んでいるので、秋の宵などには散歩ながら四谷の停車場へ出て行く。この停車場は大でもなく小でもなく、わたしにはあまり面白くない中位のところであるが、それでも汽車の出たあとの静かな気分を味わうことが出来る。堤の松の大樹の上に冴えた月のかかっている夜などは殊によい。若いときは格別、近年は甚だ出不精になって、旅行する機会もだんだんに少くなったが、停車場という乾燥無味のような言葉も、わたしの耳にはなつかしく聞えるのである。[#地から1字上げ](大正十五年八月)
底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年10月16日第1刷発行
2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「猫やなぎ」岡倉書房
1934(昭和9)年4月初版発行
初出:「東京」
1925(大正14)9月号
「時事新報」
1926(大正15)年8月19〜22日
※原題は「停車場の趣味」。
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング