山《みやま》の奥に久しく住んでいた男から何かの怪しい物がたりを聞き出そうとした、その期待は見事に裏切られてしまったのです。それでも私は強請《ねだ》るようにしつこく訊きました。
「しかし五年もそんな山奥にいては、一度や二度はなにか変ったこともあったでしょう。いや、お前さん方は馴れているから何とも思わなくっても、ほかの者が聞いたら珍らしいことや、不思議なことが……。」
「さあ。」と、かれは粗朶《そだ》の煙りが眼にしみたように眉を皺めました。「なるほど考えてみると、長いあいだに一度や二度は変ったこともありましたよ。そのなかでもたった一度、なんだか判らずに薄気味の悪かったことがありました。なに、その時は別になんとも思わなかったのですが、あとで考えるとなんだか気味がよくありませんでした。あれはどういうわけですかね。」
 かれは重兵衛という男で、そのころ六つの太吉という男の児と二人ぎりで、木曽の山奥の杣小屋にさびしく暮らしていました。そこは御嶽山《おんたけさん》にのぼる黒沢口からさらに一里ほどの奥に引っ込んでいるので、登山者も強力《ごうりき》もめったに姿をみせなかったそうです。さてこれからがお話の本文《ほんもん》と思ってください。

「お父《とっ》さん、怖いよう。」
 今までおとなしく遊んでいた太吉が急に顔の色を変えて、父の膝に取りついた。親ひとり子ひとりでこの山奥に年じゅう暮らしているのであるから、寂しいのには馴れている。猿や猪を友達のように思っている。小屋を吹き飛ばすような大あらしも、山がくずれるような大雷鳴《おおかみなり》も、めったにこの少年を驚かすほどのことはなかった。それがきょうにかぎって顔色をかえて顫《ふる》えて騒ぐ。父はその頭をなでながら優しく言い聞かせた。
「なにが怖い。お父さんはここにいるから大丈夫だ。」
「だって、怖いよ。お父さん。」
「弱虫め。なにが怖いんだ。そんな怖いものがどこにいる。」と、父の声はすこし暴《あら》くなった。
「あれ、あんな声が……。」
 太吉が指さす向うの森の奥、大きい樅《もみ》や栂《つが》のしげみに隠れて、なんだか唄うような悲しい声が切れ切れにきこえた。九月末の夕日はいつか遠い峰に沈んで、木の間から洩れる湖のような薄青い空には三日月の淡い影が白銀《しろがね》の小舟のように浮かんでいた。
「馬鹿め。」と、父はあざ笑った。「あれがなんで怖
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