を聞いたりしているうちに、杣の男が木曽の山奥にいたときの話をはじめました。
「あんな山奥にいたら、時々には怖ろしいことがありましたろうね。」と、年の若いわたしは一種の好奇心にそそられて訊きました。
「さあ。山奥だって格別に変りありませんよ。」と、かれは案外平気で答えました。「怖ろしいのは大あらしぐらいのものですよ。猟師はときどきに怪物《えてもの》にからかわれると言いますがね。」
「えてもの[#「えてもの」に傍点]とは何です。」
「なんだか判りません。まあ、猿の甲羅《こうら》を経たものだとか言いますが、誰も正体をみた者はありません。まあ、早くいうと、そこに一羽の鴨があるいている。はて珍らしいというのでそれを捕ろうとすると、鴨めは人を焦《じ》らすようについ[#「つい」に傍点]と逃げる。こっちは焦《あせ》ってまた追って行く。それが他のものには何にも見えないで、猟師は空《くう》を追って行くんです。その時にはほかの者が大きい声で、そらえてもの[#「えてもの」に傍点]だぞ、気をつけろと呶鳴ってやると、猟師もはじめて気がつくんです。最初から何《なん》にもいるのじゃないので、その猟師の眼にだけそんなものが見えるんです。
 それですから木曽の山奥へはいる猟師は決して一人で行きません。きっとふたりか三人連れて行くことにしています。ある時にはこんなこともあったそうです。山奥へはいった二人の猟師が、谷川の水を汲んで飯をたいて、もう蒸《む》れた時分だろうと思って、そのひとりが釜の蓋《ふた》をあけると釜のなかから女の大きい首がぬっ[#「ぬっ」に傍点]と出たんです。その猟師はあわてて釜の蓋をして、上からしっかり押えながら、えてものだ、えてものだ、早くぶっ払えと呶鳴りますと、連れの猟師はすぐに鉄砲を取ってどこを的《あて》ともなしに二、三発つづけ撃ちに撃ちました。それから釜の蓋をあけると、女の首はもう見えませんでした。まあ、こういうたぐいのことをえてものの仕業《しわざ》だというんですが、そのえてものに出逢うものは猟師仲間に限っていて、杣小屋などでは一度もそんな目に逢ったことはありませんよ。」
 彼は太い煙管《きせる》で煙草をすぱすぱ[#「すぱすぱ」に傍点]とくゆらしながら澄まし込んでいるので、わたしは失望しました。さびしく衰えた古い宿場で、暮秋の寒い雨が小歇《こや》みなしに降っている夕《ゆうべ》、深
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