かったのである。
昔から名物の湯屋浄瑠璃、湯ぶくれ都々逸のたぐいは、明治以後も絶えなかった。義太夫、清元、常磐津、新内、端唄、都々逸、仮声、落語、浪花節、流行唄、大抵の音曲は皆ここで聴くことが出来たが、上手なのは滅多に無いのも昔からのお定まりであった。それでも柘榴口が取払われて、浴槽内の演芸会はだんだんに衰えた。
女湯には「お世辞湯御断り申候」というビラをかけて置く湯屋があった。さなきだに、女客は湯の使い方が激しい上に自分の知り人が来ると、お世辞に揚り湯を二杯も三杯も汲んで遣る。それが又、あがり湯濫用の弊を生ずるので、湯屋でも「お世辞湯お断り」の警告を発することとなったのである。それでも利き目がないらしく、女湯は男湯よりも三倍以上の水量を要すると云われていた。殊に男客に比べると、女客は入浴時間も非常に長いから、湯屋に取っては余り有難いお客様ではなかった。板の間かせぎの被害も女湯に多かった。
江戸時代には自宅に風呂を設けてある家は少なかった。内風呂は兎かくに火災を起し易いからである。武家でも旗本屋敷は格別、普通の武士は町の湯屋へゆく。殊に下町のような人家稠密の場所では内風呂を禁じら
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