ど、思い思いの彩色画が描いてあって、子供たちを喜ばせたものであるが、何分にもこの柘榴口が邪魔をするので、浴槽の内は昼でも薄暗く、殊に夜間などは燈光の不十分と湯気との為に、隣の人の顔さえもよくは見え分からず、うっかりと他人の蔭口などを利いていて、案外にもその噂の主がうしろに聴いていたと云うような滑稽を演ずることもあったが、明治二十一二年頃から今日のように浴槽を低く作ることが行われ、最初は温泉風呂などと呼んでいた。この流行は先ず下町から始まって山の手に及び、それに連れて無用の柘榴石[#「柘榴石」はママ]も自然に取払われた。
湯銭は八厘から一銭、一銭五厘、二銭と、だんだんに騰貴して、日露戦争頃までは二銭五厘に踏み留まっていたが、場末には矢張り二銭というのもあった。ほかに「留め湯」とか「月留め」とかいう制度があって、毎日かならず入浴する人に対しては割引をする。それも最初は一ヶ月前金十銭ぐらいであったが、湯銭騰貴に伴って、二十銭、二十五銭、三十銭となり、湯銭二銭五厘の当時には五十銭となった。又、朝夕二回入浴する人に限って、朝湯は一ヶ月十銭ぐらいに割引するのが普通であったから、職人などは勿論、入
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