で、湯屋へ好い着物をきて行くと盗難の虞れがあるとも云い、十人が十人、木綿物を着て行くのを例としていたが、その風俗が次第に変って、銘仙はおろか、大島紬、一楽織の着物や羽織をぞろりと着込んで、手拭をぶら下げてゆく人も珍しくないようになった。一般の風俗が華美に流れて来たことは、これを見ても知られると、窃に嘆息する老人もあったが、滔々たる大勢を如何ともする事は出来なかった。
それを附目でもあるまいが、湯屋の盗難は多くなった。むかしから「板の間稼ぎ」という専門の名称もあるくらいで、湯屋の盗難は今に始まったことでも無いが、警察から屡々注意するにも拘らず、男湯にも女湯にも板の間かせぎが跋扈する。それを防ぐために、夜間混雑の際には脱衣場に番人を置くことになったが、大抵は形式的に十四五歳の少女を置くに過ぎず、夜が更けると居睡りなどをしているのが多いので、これ等の番人は案山子も同様と心得て、浴客自身が警戒するのほかは無かった。湯屋で盗難に逢った場合には、その被害者に対して営業者が弁償の責を負うと云う事になったが、それも殆ど有名無実で、所詮は被害者の泣寝入りに終った。それでも湯屋へ美服を着てゆくのは止まなかったのである。
昔から名物の湯屋浄瑠璃、湯ぶくれ都々逸のたぐいは、明治以後も絶えなかった。義太夫、清元、常磐津、新内、端唄、都々逸、仮声、落語、浪花節、流行唄、大抵の音曲は皆ここで聴くことが出来たが、上手なのは滅多に無いのも昔からのお定まりであった。それでも柘榴口が取払われて、浴槽内の演芸会はだんだんに衰えた。
女湯には「お世辞湯御断り申候」というビラをかけて置く湯屋があった。さなきだに、女客は湯の使い方が激しい上に自分の知り人が来ると、お世辞に揚り湯を二杯も三杯も汲んで遣る。それが又、あがり湯濫用の弊を生ずるので、湯屋でも「お世辞湯お断り」の警告を発することとなったのである。それでも利き目がないらしく、女湯は男湯よりも三倍以上の水量を要すると云われていた。殊に男客に比べると、女客は入浴時間も非常に長いから、湯屋に取っては余り有難いお客様ではなかった。板の間かせぎの被害も女湯に多かった。
江戸時代には自宅に風呂を設けてある家は少なかった。内風呂は兎かくに火災を起し易いからである。武家でも旗本屋敷は格別、普通の武士は町の湯屋へゆく。殊に下町のような人家稠密の場所では内風呂を禁じられていたので、大家と云われるほどの商家の主人でも、大抵は銭湯へ入浴に行った。明治以後はその禁制も解かれ、且は地方人が多くなった為に一時は内風呂が頗る流行したが、不経済でもあり、不便でもあるというので、明治の中頃からは次第に廃れて、大抵は銭湯へ行くようになった。大正以後、内風呂がまた流行り出して、此頃は大抵の貸家にも風呂場が附いているようになったが、それが又どう変るか判らない。
[#地付き](『江戸と東京』38[#「38」は縦中横]年4月号)
底本:「文藝別冊[総特集]岡本綺堂」河出書房新社
2004(平成16)年1月30日発行
初出:「江戸と東京」
1938(昭和13)年4月
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年4月15日作成
2008年6月1日修正
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