を据えてあって、客は湯銭を半紙にひねって三宝の上に置いて這入る。それを呼んで「おひねり」という。即ち菖蒲や柚の費用にあてる為に、規定の湯銭よりは一銭でも二銭でも余分の銭を包むのである。花柳界に近い湯屋などは、この「おひねり」の収入がなかなか多かった。芸妓などは奮発して、五銭も十銭も余分に包むからである。しかも明治の末期になると、花柳界附近は格別、他の場所ではその三宝を無視して、当日にも普通の湯銭しか置かない客がおいおい殖えて来たので、湯屋の方でも自然に菖蒲や柚を倹約し、菖蒲湯も柚湯も型ばかりになった。
「浮世風呂」などにも湯屋の二階のことが書いてあるが、三馬時代の湯屋の二階番は男が多かったらしい。江戸末期から若い女を置くようになって、その遺風は東京に及び、明治の初年には大抵の湯屋に二階があって、男湯の入口から昇降が出来るようになっていた。そこには白粉臭い女が一人又は二人ぐらい控えていて、二階にあがった客は新聞や雑誌をよみ将棋をさし、ラムネを飲み、菓子をくい、麦湯を飲んだりしていたのであるが、風紀取締りの上から面白くない実例が往々発見されるので、明治十八年頃から禁止された。矢場や銘酒屋を許可しながら、湯屋の二階だけを禁止するのは不公平だという議論もあったが、湯屋が本業である以上、副業の二階を禁じられても公然の反対は出来なかったので、湯屋の二階はここに亡び、「湯屋の姐さん」という名称も消滅した。
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毎年十月の候になると、流し場の壁や羽目に「例年の通り留桶新調仕候」というビラが掛けられる。これは三助(東京では普通に番頭という)に背中を洗わせる客に限って使用させる小判形の桶を新調するという意味で、単に新調するというのではなく、その桶を新調するに付、幾分の寄附をしてくれと云うのである。留桶を平生使用している客は、それに対して五十銭、一円、或は二三円を寄附するのが習で、湯屋の方では「金何十銭、何某様」と書いた紙を一々貼り出すことになっているから、客は自分の面目上、忌でも相当の寄附をしなければならない。悪い習慣だと批難する人もあるが、留桶を新調するのは番頭の負担で、湯屋の主人は一切関係しない事になっているのであるから、番頭も寄附金を募らなければ遣切れないという理窟にもなる。花柳界に近い場所や、下町の盛り場にある湯屋では、浴客にみな相応の見栄があるから、こういう時には案外の寄附金が集まって、番頭は留桶新調の実費以外に相当の収入があったという。
留桶新調のほかに、留桶を毎日使用している客は、盆暮の二季に幾らかの祝儀を番頭に遣るのが習であった。そんなわけで、辛抱人の番頭は金を溜めることが出来た。まだ其のほかに貰い湯というものがあった。正月と盆の十六日は番頭の貰い湯と称して、焚物の実費だけを主人に支払い、入浴料はすべて自分の所得となるので、当日は番頭自身が番台に坐りやはり白木の三宝を控えて、例の「おひねり」の湯銭を受取るのであった。この日も浴客は普通以上の湯銭を包んで行き番頭も一々丁寧に礼を云った。
菖蒲湯、ゆず湯、盆と正月の貰い湯、留桶新調、それらのほかに正月の三ヶ日間は番台に例の三宝を置いて、おひねりを受取る。これは湯屋の所得である。こういう風に数えて来ると、なんの彼のと名をつけて、普通の入浴料以外のものを随分徴収されたようであるが、一年三百六十五日の長いあいだに、そのくらいの事は仕方がないと覚悟して、別に苦情をいう者もなかった。今日に比べると、その当時の浴客は番台と親しみが深いようであった。番台には今日と同様、湯屋の亭主か女房か又は娘が坐っていたのであるが、顔なじみの客が来れば何とか挨拶して話しかける、客の方でも何か話しているのが多かった。世の中が閑であったせいもあろうが、そんなわけで双方の親しみが深いので、前にいう菖蒲湯その他のおひねりも快く支払われたのであろう。
夜は格別、昼間は入浴の客も少く、番台にぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]坐っているのも退屈であるので、大抵は小説や雑誌などを読んでいる。その読物を貸してくれる客も多かった。貸してくれるばかりでなく、又それを借りて行く客もある。つまりは番台を仲介所にして、小説や雑誌の回覧を行っている形であった。一々に見物するわけでもあるまいが、番台の人たちは芝居の噂などをよく知っていて、今度の歌舞伎座はどうだとか、新富座はどうだとか云って話した。したがって、湯屋や髪結床の評判が芝居や寄席の人気にも相当の影響をあたえたらしく湯屋の脱衣場や流し場には芝居の辻番附や、近所の寄席のビラが貼られていた。
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日清戦争以後の頃から著るしく目立って来たのは、美服を着て湯屋へゆく人の多くなった事である。女客は格別、男客は不断着のままで入浴に出かけるのが普通
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