言葉は丁寧であるが、すこぶる冷淡な態度をみせられて、治三郎はやや意外に感じた。ここらに住むものは彰義隊の同情者で、上野から落ちて来たといえば、相当の世話をしてくれると思っていたのに、彼は情《すげ》なく断るのである。
「泊めることが出来なければ、少し休息させてくれ。」
「折角ですが、それも……。」と、彼はまた断った。
たとい一泊を許されないにしても、暫時ここに休息して、一飯《いっぱん》の振舞にあずかって、それから踏み出そうと思っていたのであるが、それも断られて治三郎は腹立たしくなった。
「それもならないと言うのか。それなら雨戸を蹴破って斬り込むから、そう思え。」
戦いに負けても、疲れていても、こちらは武装の武士である。それが眼を瞋《いか》らせて立ちはだかっているので、男も気怯《きおく》れがしたらしい。一旦引っ込んで何か相談している様子であったが、やがて渋々に雨戸をあけると、そこは広い土間になっていた。治三郎を内へ引入れると、彼はすぐに雨戸をしめた。家内の者はみな隠れてしまって、その男ひとりがそこに立っていた。
治三郎は水を貰って飲んだ。それから飯を食わせてくれと頼むと、男は飯に梅干を添えて持ち出した。彼は恐れるように始終無言であった。
「泊めてはくれないか。」
「お願いでございますから、どうぞお立退きを……。」と、彼は嘆願するように言った。
「詮議がきびしいか。」
「さきほども五、六人、お見廻りにお出でになりました。」
「そうか。」
上野から来たか、千住から来たか、落武者捜索の手が案外に早く廻っているのに、治三郎はおどろかされた。ここの家で自分を追っ払おうというのも、それがためであると覚った。
「では、ほかへ行ってみよう。」
「どうぞお願い申します。」
追い出すように送られて、治三郎は表へ出ると、雨はまだ降りつづいている。飯を食って休息して飢えと疲れはいささか救われたが、さて、これから何処へゆくか、彼は雨のなかに突っ立って思案した。
捜索の手がもう廻っているようでは、ここらにうかうかしてはいられない。どこの家でも素直に隠まってくれそうもない。どうしたものかと考えながら、田圃路をたどって行くうちに、彼はふと思いついた。かの農家の横手には可なり広いあき地があって、そこに大きい物置小屋がある。あの小屋に忍んで一夜を明かそう。あしたになれば雨も止むであろう。捜索の手もゆるむであろう。自分の疲労も完全に回復するであろう。その上で奥州方面にむかって落ちてゆく。差しあたりそれが最も安全の道であろうと思った。
治三郎は又引っ返した。雨にまぎれて足音をぬすんで、かの農家の横手にまわって、型ばかりの低い粗い垣根を乗り越えて、物置小屋へ忍び込んだ。雨の日はもう暮れかかっているのと、母屋《おもや》は厳重に戸を閉め切っているのとで、誰も気のつく者はないらしかった。
薄暗いのでよく判らないが、小屋のうちには農具や、がらくた道具や、何かの俵のような物が積み込んであった。それでも身を容れる余地は十分にあるので、治三郎は荒むしろ二、三枚をひき出して土間に敷いて、疲れたからだを横たえた。さっきまでは折おりにきこえた鉄砲の音ももう止んだ。そこらの田では蛙がそうぞうしく啼いていた。
雨の音、蛙の音、それを聴きながら寝ころんでいるうちに、治三郎はいつしかうとうとと眠ってしまった。その間に幾たびかお七の鶏の夢をみた。ときどき醒めては眠り、いよいよ本当に眼をあいた時は、もう夜が明けていた。夜が明けるどころか、雨はいつの間にか止んで、夏の日が高く昇っているらしかった。
「寝過したか。」と、治三郎は舌打ちした。
夜が明けたら早々にぬけ出す筈であったのに、もう午《ひる》になってしまった。捜索の手がゆるんだといっても、落武者の身で青天白日のもとを往来するわけにはゆかない。なんとか姿を変える必要がある。もう一度ここの家の者に頼んで、百姓の古着でも売って貰わなければなるまい。そう思って起きなおる途端に、小屋の外で鶏の啼き声が高くきこえた。治三郎はふとお七の夢を思い出した。
又その途端に、物置の戸ががらりとあいて、若い女の顔がみえた。はっと思ってよく視ると、それは夢に見たお七の顔ではなかった。しかもそれと同じ年頃の若い女で、おそらくここの家の娘であろう。内を覗いて、かれもはっとしたらしかった。
「早く隠れてください。」と、娘は声を忍ばせて早口に言った。
隠れる場所もないのである。捜索隊に見付かったら百年目と、かねて度胸を据えていたのであるが、さてこの場合に臨むと、治三郎はやはり隠れたいような気になって、隅の方に積んである何かの俵のかげに這い込んだ。しかも、これで隠れおおせるかどうかは頗る疑問であるので、素破《すわ》といわば飛び出して手あたり次第に斬り散らして逃げる
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