をしながら、そのあいだには徒然《つれづれ》に苦しんで市中を徘徊するのもある。芝居や寄席などに行くのもある。吉原などに入り込むのもある。しかも自分の屋敷へ立寄るものは殆どなかった。殊に石原の家では、主人が家を出ると共に、妻子は女中を連れて上総《かずさ》の知行所へ引っ込んでしまって、その跡はあき屋敷になっていたので、もう帰るべき家もなかった。
五月二日は治三郎の父の祥月命日である。この時節、もちろん仏事などを営んでいるべきではないが、せめてはこうして生きている以上、墓参だけでもして置こうと思い立って、治三郎はその日の朝から上野の山を出た。菩提寺は小石川の指ヶ谷町にあるので、型のごとくに参詣を済ませ、寺にも幾らかの供養料を納め、あわせて自分が亡きあとの回向《えこう》をも頼んで帰った。その帰り道に、かの円乗寺の前を通りかかった。
「あの時はどういう料簡だったのか今では判りません。」と、治三郎老人は我ながら不思議そうに語るのであった。
まったく不思議と思われるくらいで、治三郎はその時ふいとお七の墓が見たくなったのである。彰義隊と八百屋お七と、もとより関係のあるべき筈はないが、彰義隊の一人石原治三郎は唯なんとなくお七の墓に心を惹かれたのである。彼は円乗寺の門内にはいって、お七の墓をたずねて行った。墓のほとりの八重桜はもう青葉になっていた。痩せても枯れても三百五十石の旗本の殿様が、縁のない八百屋のむすめなどに頭を下げる理屈もないが、相手が墓のなかの人であると思うと、治三郎の頭はおのずと下がった。
寺を出て、下谷の方角へ戻って来ると、池《いけ》の端《はた》で三人の隊士に出逢った。
「午飯《ひるめし》を食いに行こう。」
「雁鍋《がんなべ》へ行こう。」
四人が連れ立って、上野広小路の雁鍋へあがった。この頃は世の中がおだやかでない。殊に彰義隊の屯所の上野界隈は、昼でも悠々と飯を食っている客は少かった。四人は広い二階を我物顔に占領して飲みはじめた。あしたにも寄手《よせて》が攻めて来れば討死と覚悟しているのであるから、いずれも腹いっぱいに飲んで食って、酔って歌った。相当に飲む治三郎もしまいには酔い倒れてしまった。
大仏の八つ(午後二時)の鐘が山の葉桜のあいだから近くひびいた。
「もう帰ろう。」と、一同は立上がった。
治三郎は正体もなく眠っているので、無理に起すのも面倒である。山は眼の前であるから、酔いがさめれば勝手に帰るであろう、と他の三人はそのままにして帰った。置去りにされたのも知らずに、治三郎はなお半時《はんとき》ばかり眠りつづけていると、彼は夢を見た。
その夢は「一話一言」と同じように、八百屋お七が鶏になったのである。首だけは可憐の少女で、形は鶏であった。
「お断り申して置きますが、わたしが蜀山人の〈一話一言〉を読んだのは明治以後のことで、その当時はお七の鶏のことなぞは何にも知らなかったのです。」と、治三郎老人はここで注を入れた。
治三郎は勿論お七の顔なぞ知っている筈はなかったが、その少女がお七であることを夢のうちに直感した。さっき参詣してやったので、その礼に来たのであろうと思った。場所はどこかの農家の空地とでもいいそうな所で、お七の鶏は落穂でもひろうように徘徊していた。かれは別に治三郎の方を見向きもしないので、彼はすこしく的《あて》がはずれた。なんだか忌々《いまいま》しいような気になったので、彼はそこらの小石をひろって投げつけると、鶏は羽摶《はばた》きをして姿を消した。
夢は唯それだけである。眼がさめると、連れの三人はもう帰ったというので、治三郎も早々に帰った。山へ帰れば一種の籠城である。八百屋お七の夢などを思い出している暇はなかった。
十五日はいよいよ寄手を引寄せて戦うことになった。彰義隊の敗れたその日の夕七つ頃(午後四時)に、治三郎は根津から三河島の方角へ落ちて行った。三、四人の味方には途中ではぐれてしまって、彼ひとりが雨のなかを湿《ぬ》れて走った。しかも方角をどう取違えたか、彼は千住に出た。千住の大橋は官軍が固めている。よんどころなく引っ返して箕輪田圃《みのわたんぼ》の方へ迷って行った。
二
蓮田を前にして、一軒の藁葺屋根が見えたので、治三郎はともかくもそこへ駈け込んだ。彼は飢えて疲れて、もう歩かれなかったのである。ここは相当の農家であるらしかったが、きょうの戦いにおどろかされて雨戸を厳重に閉め切っていた。
治三郎は雨戸を叩いたが、容易に明けなかった。続いて叩いているうちに、四十前後の男が横手の竹窓を細目にあけた。
「おれは上野から来たのだ。ひと晩泊めてくれ。」と、治三郎は言った。
「上野から……。」と、男は不安そうに相手の姿をながめた。「お気の毒ですが、どうぞほかへお出でを願いとうございます。」
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