いかとも考えて見た。座敷を明けろとか明けないとかいう掛け合いで、茶屋が自分のために骨を折っていてくれるのではないかとも善意に解釈して見た。外がだんだんに賑わって来るにつれて、外記はいよいよ苛々して来た。迎いの来るのを待たずに、自分から大菱屋へ出掛けて行こうかとも思った。
 女房は息を切って階子《はしご》をあがって来た。
「どうもお待たせ申しました。花魁は宵に早く帰るお客がござりましたもんですから、それを送り出すのでお手間が取れまして……。いえ、もう直ぐにお見えになります」
 綾衣の遅いのには少し面倒な子細《しさい》があった。駿河屋の女中は外記の顔を見ると、すぐに綾衣を仕舞いに行ったが、たったひと足の違いでほかの茶屋からも初会《しょかい》の客をしらせて来た。そういうことに眼のはやい女中は、二階の階子をあがる途中でつい[#「つい」に傍点]と相手を駈けぬけて綾衣の部屋へ飛び込んでしまった。そこへ続いてほかの茶屋の女中もあがって来た。そこで、いよいよお引けという場合にはどっちが本座敷へはいるかという問題について、茶屋と茶屋との間にまず衝突が起った。
 たとい初会であろうとも、自分の方がひと足さきへ大菱屋《おおびしや》のしきいを跨《また》いで、帳場にも声をかけてある以上は、自分のうちの客が本座敷へはいるのは当然の権利であると、ほかの茶屋の女中は主張した。
 駿河屋の女中は相手の理を非にまげて、こっちは昼間からちゃんと花魁に通して座敷を仕舞ってあると強情を張った。
 どちらも自分のうちの客を大事に思う人情と商売上の意気張りとで、たがいに負けず劣らずに言い争っているので、番頭新造《ばんとうしんぞう》の手にも負えなくなって来た。駿河屋の女中は自分の方の旗色がどうも悪いと見て、急いで家《うち》へ飛んで帰って、女房にこの始末を訴えた。女房も直ぐに出て行った。事はいよいよ縺《もつ》れてむずかしくなったが、肝腎の綾衣はいうまでもなく駿河屋の味方であった。
 彼女はさっき帰ったばかりの外記がまた引っ返して来たのを不思議のように思ったが、そんなことはどうでもいい。当座をつくろうでたらめに、外記はまたすぐ出直して来ると確かに言い置いて行ったのを、誰にも言わずにうっかりしていたのはわたしが重々の不念《ぶねん》であったと、彼女は自分ひとりで罪をかぶってしまった。
 それ見たことかと駿河屋の側では凱歌《かちどき》をあげたが、理を非にまげられた相手の女中は面白くなかった。殊に綾衣が駿河屋の肩を持っているらしく見えたので、彼女はいよいよ不平であった。結局今夜のその客はほかの花魁へ振り替えて、綾衣のところへは送らないということで落着《らくぢゃく》した。たとい初会の客にせよ、こうしたごたごた[#「ごたごた」に傍点]で、綾衣は今夜一人の客を失ってしまった。
 外記が茶屋の二階で苛々している間に、女房や女中はこれだけの働きをしていたのであったが、それは茶屋が当然の勤めと心得て、別に手柄らしく吹聴《ふいちょう》しようとも思わなかった。かえってそんな面倒は客の耳に入れない方がいい位に考えていたので、女房はいい加減に外記の手前を取りつくろって置いたのであった。
 なんにも知らない外記は唯うなずいていると、女中がつづいてあがって来た。
「綾衣さんの花魁がもう見えます」
「そうかえ」
 女房は二階の障子をあけて、待ちかねたように表をみおろした。外記もうかうか[#「うかうか」に傍点]と起って覗いた。外にも風がよほど強くなったと見えて、茶屋の軒行燈の灯は一度に驚いてゆらめいていた。浮かれながらも寒そうに固まって歩いている人たちの裳《すそ》に這いまつわって、砂の烟《けぶ》りが小さい渦のようにころげてゆくのが夜目にもほの白く見えた。春の夜の寒さを呼び出すような按摩の笛が、ふるえた余音《よいん》を長くひいて横町の方から遠くきこえた。
 江戸|町《ちょう》の角から箱提灯のかげが浮いて出た。下がり藤の紋があざやかに見えた。戦場の勇士が目ざす敵の旗じるしを望んだ時のように、外記は一種の緊張した気分になって、ひとみを据えてきっと見おろしていた。提灯が次第にここへ近づくと、女房も女中もあわてて階子を駈けおりて行った。
「さあ、花魁、おあがりなされまし」
 口々に迎えられて、若い者のさげた提灯の灯は駿河屋の前にとまった。振袖新造《ふりそでしんぞう》の綾鶴と、番頭新造の綾浪と、満野《みつの》という七つの禿《かむろ》とに囲まれながら、綾衣は重い下駄を軽くひいて、店の縁さきに腰をおろした。
「皆さん、さっきはお世話でありんした」
 立兵庫《たてひょうご》に結った頭を少しゆるがせて、型ばかり会釈した彼女は鷹揚ににっこり[#「にっこり」に傍点]笑った。綾衣は俗にいう若衆顔のたぐいで、長い眉の男らしく力んだ、眼の大きい、口もとの引きしまった点は、優しい美女というよりもむしろ凛《りん》とした美少年のおもかげを見せていた。金糸で大きい鰕《えび》を刺繍《ぬい》にした縹色繻子《はないろじゅす》の厚い裲襠《しかけ》は、痩せてすらりとした彼女の身体《からだ》にうつりがよかった。頭に輝いている二枚櫛と八本の簪《かんざし》とは、やや驕慢に見える彼女の顔をさらに神々《こうごう》しく飾っていた。
「番町の殿様お待ちかねでござります」と、女房は笑顔を粧《つく》った。「すぐにお連れ申しましょうか」
「あい」と、綾衣はふたたび鷹揚にうなずいた。
「では、お頼み申します」
 若い者は提灯を消してひと足さきに帰ると、茶屋の女中は送りの提灯に蝋燭《ろうそく》を入れた。
「きつい風になった。気をつけや」と、女房が声をかけた。
 寒い風が仲の町を走るように吹いて通った。この風におどろいた一匹の小犬が、吹き飛ばされたようにここの軒下へ転げ込んで悲鳴をあげた。
「あれ、怖い」
 禿は新造にすがって、わっ[#「わっ」に傍点]と泣き出した。
「これ、おとなしくしや」
 綾衣にやさしく睨まれて、禿は新造の長い袂《たもと》の下に小さい泣き顔を押し込んでしまった。

     三

 あくる朝は四つ頃(十時)から雪になった。
 この四、五日は暖かい日和《ひより》がつづいたので、もう春が来たものと油断していると、きのうの夕方から急に東の風が吹き出して、それが又いつか北に変った。吉原は去年の四月丸焼けになった。橋場今戸の仮宅から元地へ帰ってまだ間もない廓《くるわ》の人びとは、去年のおそろしい夢におそわれながら怯《おび》えた心持ちで一夜を明かした。毎晩聞きなれた火の用心の鉄棒《かなぼう》の音も、今夜は枕にひびいてすさまじく聞えた。幸いに暁け方から風もやんだが、灰を流したような凍った雲が一面に低く垂れて来た。
「雪が降ればいいのう」と、禿どもは雪釣りを楽しみに空を眺めていた。
 こんな朝に外記は帰るはずはなかった。綾衣も帰すはずはなかった。「居続客不仕候」などと廊下にしかつめらしい貼札があっても、それはほんの形式に過ぎないことは言うまでもない。こういう朝にこそ居続けの楽しみはあるものを、外記は綾衣に送られて茶屋へ帰らなければならなかった。
 金龍山《きんりゅうざん》の明け六つが鳴るのを待ち兼ねていたように、藤枝の屋敷から中間《ちゅうげん》の角助が仲の町の駿河屋へ迎いに来た。ゆうべあいにく市ヶ谷の叔父さまがお屋敷へお越しなされて、また留守かときつい御立腹であった。お嬢さまも御用人もいろいろに取りつくろって其の場はどうにか納まったものの、明日もまだ帰らぬようであったらおれにもちっと考えがある、必ずおれの屋敷まで知らせに参れと、叔父さまがくれぐれも念を押して帰られた。就いてはきょうもお留守とあっては、どのような面倒が出来《しゅったい》いたさぬとも限られませねば、是非とも一度お帰り下さるようにと、お縫と三左衛門との口上を一緒に列べ立てた。
「叔父にも困ったものだ」
 外記はさも煩《うる》さそうに顔をしかめたが、ともかくもひとまず茶屋へ帰って角助に逢った。角助は渡り中間《ちゅうげん》で、道楽の味もひと通りは知っている男であった。主人のお伴をして廓へ入り込んで、自分は羅生門河岸《らしょうもんがし》で遊んで帰るくらいのことは、かねて心得ている男であった。その方からいうと、彼はむしろ外記の味方であったが、きょうばかりはお帰りになる方がよろしゅうござりますと、彼もしきりに勧めた。お嬢さまはゆうべお寝《やす》みにならないほど御心配の御様子でござりましたとも言った。
「お縫までが……。揃いもそろって困ったやつらだ。よし、よし、きょうは帰る」と、外記は叱るように言った。
 腹立ちまぎれに支度さして外記はすぐに駕籠に乗った。寝足らない眼に沁みる朝の空気は無数の針を含んでいるようで、店の前の打ち水も白い氷になっていた。
「お寒うござりましょう。お羽織の上にこれをお召しなされまし」と、女房は気を利かして、綿の厚い貸羽織を肩からふわりと着せかけてくれたが、焦《じ》れて、焦れ切っている外記には容易に手が袖へ通らないので、彼はますます焦れた。曲がったうしろ襟を直してくれようとする女房の手を払いのけるようにして、彼は思い切りよく駕籠にひらりと乗り移った。
「気をつけてお出でなんし」
 綾衣が駕籠の垂簾《たれ》を覗こうとする時に、白粉《おしろい》のはげた彼女の襟もとに鳥の胸毛のような軽い雪がふわりふわりと落ちて来た。

 けさのこうした別れのありさまを思いうかべながら、綾衣は十畳の座敷につづいた八畳の居間に唯ぼんやりと夢みるように坐っていた。大籬《おおまがき》に育てられた彼女は、浮世絵に描かれた遊女のようにしだら[#「しだら」に傍点]のない立て膝をしてはいなかったが、疲れたからだを少しく斜《はす》にして、桐の手あぶりの柔かいふちへ白い指さきを逆《さか》むきに突いたまま、見るともなしに向うの小さい床《とこ》の間《ま》を見入っていた。床には一面の琴が立ててあった。なまめかしい緋縮緬の胴抜きの部屋着は、その襟から抜け出した白い頸筋をひとしお白く見せて、ゆるく結んだ水色のしごきのはしは、崩れかかった膝の上にしどけなく流れていた。
 入り口の六畳には新造や禿《かむろ》が長火鉢を取り巻いて、竹邑《たけむら》の巻煎餅《まきせんべい》か何かをかじりながら、さっきまで他愛もなく笑ってしゃべっていたが、金龍山の四つの鐘が雪に沈んできこえる頃からそろそろ鎮まって、禿の声はもう寝息と変った。新造たちもうたた寝でもしているらしかった。
 入り口と座敷とに挟まれた綾衣の居間は、昼でも陰気で隅々は薄暗かった。一旦ちらちらと落ちて来てまた降りやんだと思った雪が、とうとう本降りになって来た。奥二階の夕雛《ゆうひな》の座敷には居続けの客があるらしく、夕雛が自慢の琴の音が静かな二階じゅうに冴えてきこえた。しかしその夕雛がほんとうに思っている人は、このごろ遠い上方《かみがた》へさすらいの身となっていることを考えると、その指さきから弾き出される優しい爪音にも、悲しいやるせない女の恨みが籠っているようで、じっと聴いている客は、馬鹿らしくもあり、また憎らしくも思われた。
 自分もいつか一度は夕雛さんと同じような悲しい目に逢うのではあるまいか。綾衣はそんなことも考えずにはいられなかった。
 六つの時に禿に売られて来て、十六の春から店へ出た。そうして、ことしも二十二の正月を廓で迎えた。苦海《くがい》十年の波を半分以上も泳ぎ越すうちに、あとにもさきにもたった一度の恋をした相手は立派な武士《さむらい》である。五百石の旗本である。どんなに両方が慕っても泣いてもこがれても、吉原の遊女が天下のお旗本の奥様になれないのは、誰が決めたか知らないが此の世のむごい掟《おきて》であった。旗本には限らない、そうじて遊女や芸妓《げいしゃ》と武士との間には、越えることのできない関が据えられていた。人は武士《ぶし》、なぜ傾城に忌《いや》がられるかというと、一つには末の目当てがないからであった。恋はもちろん打算的から成り立つものではないが、しょせん添われぬと決まっている人と
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